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東京地方裁判所 昭和39年(刑わ)1115号 判決

目  次

主文

理由

第一 被告人らの地位および経歴

第二 本件にいたるまでの経過

一 都民交通における従来の労使関係

二 本件事犯にいたるまでの経緯

第三 罪となるべき事実

第四 証拠

一 証拠の標目

二 事実認定の補足説明

1 共謀の事実について

2 実行行為について

イ 被告人真井の行動について

ロ 被告人鶴見の行動について

ハ 被告人平林の行動について

第五 刑訴法三三五条二項の主張について

一 弁護人の主張

二 当裁判所の判断

第六 法律の適用

第七 被告人らに対する無罪の理由

一 公訴事実の要旨

二 当裁判所の判断

1 本件争議にいたるまでの経緯

2 車検とキイの保管について

イ いわゆる「共謀」について

ロ 車検とキイの保管

3 一月三一日における会社事務所の状況

イ ストライキ解除の際の状況

ロ 車検とキイの返還拒絶の状況

ハ 車検とキイの奪取の状況

4 威力業務妨害罪の成否について

イ 車検とキイの返還拒絶について

ロ 車検とキイの奪取について

三 アリバイの主張と被告人らの行動について

イ 被告人三浦について

(1)歯痛と受診の事実

(2)来院時刻

(a) 患者の受診順序

(b) 先順位者の来院状況

(c) 後順位者の来院状況とくに帰宅時刻

(一)天候、ことに降雨状況との関係

(二)夕食時刻との関係

(三)田村真美の先順位者(被告人三浦)との関係

(四)田村真美以後の患者との関係

(d) 被告人三浦の受診状況と来院時刻

(3)被告人三浦本人の来院時刻に関する供述について

(4)被告人三浦の当日の行動について

ロ 被告人平林について

(1)弁護側証人の証言等について

(2)杉崎写真について

ハ 被告人鶴見について

四 むすび

第八 量刑の事情

別紙一覧表

被告人 柏木定治 外四名

主文

被告人柏木定治を罰金四万円に、

被告人真井俊一郎を罰金四万円に、

被告人鶴見輝行を罰金三万円に、

被告人平林吉長を罰金二万円に、

それぞれ処する。

右被告人らにおいて右罰金を完納することができないときは、金五〇〇円を一日に換算した期間当該被告人を労役場に留置する。

訴訟費用中、証人鈴木進に支給した分は被告人平林吉長の単独負担とし、証人田村千代子、同大川忠男、同佐藤富子、同田村秀子、証人兼鑑定人太田芳夫に各支給した分を除くその余は被告人柏木定治、同真井俊一郎、同鶴見輝行、同平林吉長の連帯負担とする。

被告人三浦秀夫は無罪。

理由

第一被告人らの地位および経歴

被告人柏木定治は昭和三一年一〇月ころ都民交通株式会社(以下都民交通または会社という。)と同一系列にあつた東邦交通株式会社にタクシー運転者として入社し、ついで昭和三二年一二月両社の分裂にともなつて相互に従業員の入れ替えを行なつた結果都民交通所属の運転者となり、間もなく同会社現場従業員をもつて組織する全国自動車交通労働組合(以下全自交という。)傘下の都民交通労働組合の執行委員となり、その後昭和三七年二月から同労働組合副執行委員長をしていたもの、

被告人真井俊一郎は昭和三二年七月右東邦交通株式会社にタクシー運転者として雇われ、その後都民交通の運転者に入れ替え配置されるや、これと同時に右労働組合の組合員となり、その後同組合執行委員、副執行委員長あるいは執行委員長の役職を経て本件争議当時、同組合の闘争委員に選任せられていたもの、

被告人鶴見輝行は昭和三三年二月都民交通のタクシー運転者として雇われ、約半年間の試採用期間を経て、本採用となるや、正式に同労働組合に加入し、一時結核のため長期欠勤をしていたこともあつたが、復帰後は、組合闘争委員などに選任せられ、本件当時は同組合の執行委員の役職についていたもの、

被告人平林吉長は昭和三四年一二月都民交通のタクシー運転者として雇われ、約半年足らずの試採用期間の後、本採用となるや、直ちに同労働組合に加入し、同組合の車両係その他の役職を経て、本件争議当時、同組合の闘争委員に選任せられていたものである。

第二本件にいたるまでの経過

一  都民交通における従来の労使関係

被告人らの属する右都民交通は、本社営業所を東京都渋谷区神山町一一番の一四号に置き(ただし、これに付置された同会社のいわゆる第二、第三および第四車庫は同町一一番の一三号)、一般旅客自動車運送事業を営む資本金一五〇〇万円の株式会社であつて、昭和三二年一二月竹内昇の経営資本から分離して以来、十河京一が代表取締役となり、保有車両も漸次増加して本件当時には、ガソリン車二五台、プロパン車一二台となり、これに対する従業員は合計四九名であつて、そのうち運転者が三六名となつていた。

これより先、昭和三一年六月東邦交通時代に秋山源二(現都民交通労働組合執行委員長)の提唱の下に同会社のタクシー運転者らで組織し、右秋山が自らその執行委員長の役職についてた東邦交通労働組合は、前記のごとく、同会社と都民交通との間に従業員の入れ替えが行われるや、これにともなつて従前の右組合員をもつて新に都民交通労働組合を結成し、会社当局と折衝の結果昭和三二年一二月一五日付をもつて社長十河京一との間に協定書を作成し、今後会社と組合は従来の協定ならびに労働慣行をひきつぐものとし、双方は誠意をもつてこれを履行すべきことを確約するにいたつた。そして同協定書によれば、会社と組合の団体交渉については、都民交通労働組合を唯一の相手方とすること、従業員については、いわゆるユニオンシヨツプ制によること等が定められていた。ところが、その後会社側においては、その協定に自動延長の規定がない以上、右団体交渉に関する部分はともかく、ユニオンシヨツプ制に関する労働協約は三年の経過により失効したものであるとの見解に立ち、この点をめぐり組合側と対立していた。

ところで、昭和三四年一二月ころの年末一時金の団体交渉の際、たまたま会社側がひそかに車両を社外に運び出して第二組合を結成しようとしている動きがあるという情報がもたらされたため、これに憤激した組合側が同年一二月一六日ころかよら約一週間のストライキを実施したことや、その後さらに昭和三五年一二月に発生した一乗務員の勤務中の車両事故について会社側のとつた措置に対し組合側が異議を唱えるなどのことがあつて、そのころから労働関係がとみに悪化し、相互の間に深刻な不信感が醸成されるに至つた。他方都民交通においては、昭和三五、六年ころから会社の運転者の不足を補うために必要であるとして、日本自動車運転士労働組合(以下自運労という。)所属の日雇い運転者を継続就労の形式で採用して、これをプロパン車に乗務させ、本件当時にはその数が三五名に達していた。これに対し、組合側では、かかる会社側の経営方針に対し、会社が前記ユニオンシヨツプ制のたてまえを無視し、意識的に組合組織の破壊をたくらんでいるものと理解し、これはひとり都民交通労働組合のみの問題ではなく、全自交全体の組織に対する攻撃にほかならないと非難し、この見地から昭和三七年夏季斗争、ついで同年の年末斗争においては、右協定書の効力問題ないしはそれに関連する自運労の問題を取り上げ、これについて会社側に団体交渉を申し入れたが、会社側では右はいずれも会社経営に関する人事権の問題であるとして消極的な態度を示し、問題は未解決のまま持ち越されるに至つた。

二  本件事犯にいたるまでの経緯

かかる情勢のもとにあつて、昭和三八年二月ころタクシー業界では自動車料金の値上げを当局に申請し、早晩これが実現の機運にあつたが、当時業界から全自交傘下の組合に内示された右値上げの際における給料の歩合率に対し、被告人ら所属の都民交通労働組合では、それが実質上の賃下げにほかならないとして反対していた。ところが、同年度の春斗に際し会社側は昭和三八年七月一六日従来の乗務員一ヵ月の基本給二万六〇〇〇円に対し月額一八五〇円の特別加算給の支給を認めるにあたり、将来右料金値上げが実現した場合における歩合給の算式として、「改訂後の運収」に「現行歩合率」を掛け、これを「一プラス値上率」で除算した割合によるべき旨を提案し、これについては、右の算式による歩合給に不合理を発生した場合には、「業界全般の客観的情勢ならびに改訂後の実績を考慮して互に良識をもつて協議する」との一項を特に加えて、一応組合側との間に妥結をみるに至つた。

しかるに、同年一二月二五日ころ全自交労働組合東京地方連合会執行委員会より来る昭和三九年一月一日の料金改訂にあたり同年一月分の歩合給については旧歩合率により計算すること、および同年二月以降は会社側と協議して決定すべき旨の指令が発せられるや、被告人らの労働組合においても昭和三八年一二月二九日ころ執行委員会を開催して右指令に基き検討の結果、新歩合給は組合員にとつて実質的な賃下げであるとの判断に立ち、緊急対策として、昭和三九年一月分賃金は旧歩合率により支給すべき旨の申入れをすること、もし会社側が新歩合率を一方的に押しつける場合にはこれを拒否して旧メーターで営業を続行するとの基本的態度を決定したうえ、同年一二月三一日会社に対し文書により右上部団体からの指令どおりの申入れを行なつた。これに対し十河社長は即座に口頭をもつて去る七月一六日付の協定書により右の点はすでに協定ずみであるとの理由でこれを拒否した。ところで、そのころ組合側においては、かねてから会社側が営業用としてプロパン車を購入しているのは、その性能の劣悪と危険度の高い点を無視し、ただ燃料費の節約のみを目的とする合理化対策の一環であり、これを採用することは組合員に対し労働条件の加重をしているものにほかならないとしてこれに乗務することを拒否する一方、従来からけん案とされていたいわゆる自運労の問題すなわち人員確保の問題についても、ようやく結束して会社側と対決できる時期に到達したものと判断して、ここに昭和三九年一月七日執行委員会を開催した際、会社側の前記拒否の回答に対し団体交渉を申し入れるにあたり、右の諸問題をも一括協議の議題とすることに態度を決定し、翌八日付書面をもつて「一、昭和三八年一二月三一日付申入書に関する事項、一、L・P・G車(註・プロパン車のこと)乗務に関する件、一、乗務員の確保に関する件」の三件につき、会社側に対して団体交渉の申入れをした。その結果、同年一月一四日、同月一八日および同月二四日と順次交渉が重ねられたが、その間会社側は、第一議案については業界の申合せにより原則的には前記七月一六日付協定書どおりとするが、暫定措置として一乗務一〇〇円、月額一三〇〇円を特別加算給として支払う、第二議案については一乗務五〇円、月額六五〇円の手当金を支給する、また第三議案については人事権の問題であつて会社として運転者を採用するにあたり、その都度組合側から事前の了解を得ることは困難である旨の回答をした。ここにおいて右回答ことに当時組合側が最も重点をおいていた人員確保に関する申入れを全面的に拒否した会社側の態度を不満とした組合側は同年一月二七日午前八時から会社の仮眠所において臨時組合大会を開き、執行委員長秋山源二、書記長時目太郎のほか被告人ら全員ならびに一般組合員ら合計四三名が出席し、前記会社側との団体交渉の結果の報告が行われた後、いわゆるスト権の確立およびこれに伴う斗争委員の選出ならびに自運労に対する申入れ等の各議題について討議し、スト権については四二票対一票の圧倒的多数をもつて確立決定し、斗争委員については被告人真井、同平林および芝崎栄一の三名を選出し、ついで同日午後三時ころ前記秋山および被告人三浦の両名が自運労東京支部を訪れて、同組合執行委員長金井仁に対し「本日スト権を確立し、これについて本月三一日より実力行使の段階に入る予定でありますので、この事態が招来した場合は貴組合から都民交通株式会社への運転者の供給を一時停止されるよう要請します。」としたためた申入書を手交して協力方を要請した。かくして、被告人ら組合幹部は以上のごとき斗争態勢をととのえたうえ、同月三〇日午後二時五分ころから約三〇分間にわたり会社側と第四回目の団体交渉を行なつたが、席上十河社長から会社側の意見は従前となんら変更がない旨の回答がなされるや、当時組合側ではとりわけ斗争の重点を人員問題においていた関係もあり、前記執行委員長秋山源二は即座に、「これにて団交を打ち切る、明三一日から争議行為にはいるから詳細はおつて文書で通告する」旨申し向けて他の組合幹部らとともに退席し、つづいて被告人ら全員のほか右秋山、時目ら組合幹部が参集したうえ、ただちに全体斗争委員会に移り、秋山より当日の団体交渉の経過を報告した後、今後の情勢判断について討議を尽したうえ、具体的斗争戦術をたて、予定どおり翌三一日午前八時を期してストライキに突入することに決定した。

翌一月三一日午前八時前ころ組合側は、「申入書」と題するストライキ通告書を組合役員から会社側に手交してストライキに突入する一方、組合側は当日未明から午前一〇時ころまでの間にわたり、帰庫する組合員その他の運転者からその運転するガソリン車全部と一部プロパン車の車両備付自動車検査証(以下車検という)およびエンジンキイを受け取り、これらを組合幹部の手もとに一括保管して会社側との斗争の構えを示したが、その間会社側においても職員が手分けして会社保有のプロパン車一二両のうち、車検二通、キイ八個を回収するにいたつた。もつとも組合幹部としては前日の斗争委員会において策定した斗争戦術に基き、およそ四時間でストライキを打ち切り、直ちに出庫する意向であつたので、その間午前八時ころから仮眠所に組合員を招集して臨時組合大会を開き、ストライキ突入の経過報告ならびに斗争委員会の決定を報告し、ついで執行部の提案により同日のストライキを四時間で中止することを決定した。そこで同日午後二時すぎごろ組合三役は十河社長に対し一四時現在をもつてストライキを中止し、平常の業務に服する旨を通告し、運転日報の交付方を要請した。ところが、これに対して十河社長は、車検とキイを返せばいつでも日報は出す、二四時間のストライキの通告も最初に出ているのだから、車検とキイを返さないならそのままでもいいじやないかなどと言い張つて、右組合三役やその他の組合員らとの間にやりとりをくり返えし、その間、被告人柏木が会社事務所内の保管箱の中にさし入れてあつた三組の車検とキイを持ち出すなどのこともあつて、結局、話合いがつかないままに同日夕刻ころ秋山執行委員長以下一五名の組合員らは手製の仮日報を携えて出庫を強行したため、十河社長の指示を受けた会社側の職員はその後帰庫して来た右組合員らの水揚料金の受け入れを拒否するにいたつた。

第三罪となるべき事実

叙上の状況のもとに被告人柏木、同真井、同鶴見、同平林は、今後の対策を協議するため昭和三九年二月一日午前八時ころから都民交通営業所内の大型仮眠所で開かれた職場大会に出席し、秋山ら他の組合幹部ならびに参集の組合員約三〇名と協議の結果このまま推移すれば会社側のため車両ことにプロパン車を他に搬出されるおそれがあるとの判断の下に、この際争議戦術の一環としてとりあえずプロパン車についてはその車輪を撤去するなどしてその移動を不可能ならしめ、これによつて会社側の意図を挫折させようとの評議一決し、ここに右被告人ら四名は前記秋山ら組合幹部および出席の組合員らと共謀のうえ、被告人真井、同鶴見、同平林は同日午前一〇時すぎころから他の組合員約二〇名と相前後して会社事務所前面の第一車庫におもむきその後同日午前一一時すぎころまでの間に、その間被告人らが具体的にいかなる行動をとつたかは、証拠上明らかでないが、ともかく一同協力のうえ手で押すなどして右第一車庫にあつたプロパン車四台およびこれに近接する第二車庫内に格納されていたプロパン車二台(品五あ七一―六六号、同六六―四四号、同七〇―七四号、同六一―六六号、同六九―三五号および同六六―四五号以上合計六台)を順次近辺にある第四車庫内に移動するとともに、また右第一車庫にあつたプロパン車品五あ六一―六五号車を移動して付近にあるプロパン車四台(品五あ七一―六七号、同六八―五四号、同六九―三六号および同六八―五三号の各車)の前面に横付けにし、さらに右第一車庫からプロパン車一台(品五あ六一―六七号)を事務所階下横の修理工場内のピツトの上に移動し、その間右修理工場付近を通りあわせた十河社長から制止されたにもかかわらずこれを無視し、前同様共同して、クリツプ廻しあるいはオイルジヤツキ等を使用し、第四車庫においては前面の二台(品五あ七一―六六号および同六六―四四号の各車)の各左右前輪合計四個の車輪を、第一車庫においては前記六一―六五号車の車首方向左側の前後両輪ならびに前記六八―五四号車および同六八―五三号車のいずれも車首方向右側の前後各両輪の以上合計六個の車輪を、また、修理工場においては前記六一―六七号の車首方向左側の前後両輪二個をそれぞれ撤去した後さらに同日夕刻ころ被告人真井を含む組合員ら数名が前同様の方法をもつて第四車庫に格納中の前記七一―六六号車および六六―四四号車(前記のとおりいずれもすでに左右各前輪が取り外されていたもの)の各左右後輪合計四個を取り外したほか、なお別に七〇―七四号の左右前輪二個および六一―六六号車の車首方向左側の前後輪二個の各車輪を撤去したうえ、それらの復旧のためには必要欠くべからざるナツトの所在をも明らかにせず、もつて合計八台の右プロパン車(品五あ七一―六六号、同六六―四四号、同六一―六五号、同六八―五四号、同六八―五三号、同六一―六七号、同七〇―七四号、同六一―六六号)の使用を一時不能にしてこれを毀棄するとともに、これら八台を含む以上合計一二台(右八台のほか、第一車庫内にある品五あ七一―六七号、同六九―三六号および第四車庫内にある前同六九―三五号、同六六―四五号の四台)の右プロパン車の移動、出庫、洗車、整備等車両の管理に必要な措置をとることを事実上不能ならしめ、これによりその後同月四日撤去された右各車輪の復旧をみるまでの間にわたり威力を用いて右都民交通所有の右営業車運行に関する業務を妨害したものである。

第四証拠

一  証拠の標目(略)

二  事実認定の補足説明

1  共謀の事実について

被告人柏木、同真井、同鶴見および同平林らが、判示車輪取り外しの犯行について昭和三九年二月一日他の組合員らとともにこれを謀議した事実は、判示認定のとおりであるが、なお証拠にもとづき補足して説明を加える。

イ  二月一日の職場大会において判示のような共謀の成立した事実については、

(1)証人秋山源二の証言(記録一三冊、速記録四九〇丁参照、なお、以下同様の場合には単に冊数と丁数のみを表示することとするが、これは当該参照個所だけに証拠を限定する趣旨でないことはもち論である。)により、同人が昭和三九年二月一日判示職場大会の席上自ら記載し、その内容においても十分措信できると認められる議事録(以下秋山議事録という)(前同押号の一〇)の中、二月一日に関する記載によると、まず「今日のスケジユール」として「一、意志の統一、二、斗争委員会××具体的の今後方針をもとめる、三、地連、ブロツク、弁護士へ行く、四、団交をやる、五、注意車両を押えられるから車検だけもつて来い、」とあり、ついで各組合員の討議発言として、「平林―車を確保する必要がある。組織を破壊するというのだから先手先手を打つべきだ」「森田―プロパンをエンコさせるべきだ」などとあり、さらに「今緊急にすべき事」として「一、プロパンエンコ、二、修理室解放」その他の事項をかかげ、最後に大会における決定として「実行行為に入る。決定」とし、これにつづいて「一、弁護士時目、真井、日高、二、地連柏木、平林、深川」という記載があること

(2)被告人柏木の当公判廷における供述(一五冊、五七ないし六〇丁)により同被告人が自ら記載したと認められるノート(以下柏木ノートという)(前同押号の一一)の中、二月一日に関する記載によると、冒頭の部分に出席役員の氏名として「秋山、柏木、時目、靍見、菊地、森脇、石田、辺見、平林、芝崎」とし、現在までの情勢報告の後討議に移つたことを示す記載として「深川―車検の切れる車が続出するときは、プロパンを持出させる危険性があるからタイヤを外して警戒すべきだ」「辺見―エンコの連絡を出来るように電話を確保せよ」「平林―生活を確保するのはいいが、そればかり考えないで、先ず何んな斗いにも耐えられる態勢を固めよ」「真井―来るものが来た、何も対決しなければならなかつたのだから決心を固めて斗う」「神谷―プロパンは有馬の車庫に入れ、陸運局に対し車庫の問題を惹起させる」とあり、つづいて「直ちに実行行為に入る」と記載し、それにつづいて「柏木、平林、深川―上部団体、政党団体報告要請」「時目、真井、日高―松本事務所相談」という記載があること

(3)証人秋山源二が当公判廷において「二月一日の職場大会でタイヤを外すという提案は組合員からあつた。プロパンをエンコさせるというのはタイヤを外すということであつて、当日の大会でその旨の決議をした」旨(一三冊、四九〇ないし四九二丁)供述していること

(4)証人森脇三郎が当公判廷において「二月一日の臨時大会で私どもは会社側が今度車両を持ち出すんではないかと臆測した。それでいろいろうわさがとんで車両を持ち出されると、私どもは陸にあがつたカツパみたいなものだから車両を持ち出されないようにする方法を討議した。その結果まず車検とキイを会社側が持つているプロパン車の車輪を外してそのナツトを保管しようというふうに決めた。そしてそれを実行した」旨(一一冊、八一ないし八二丁)供述していること

等その他前記証拠標目記載の各証拠を総合すれば被告人柏木、同真井、同鶴見、同平林が二月一日午前八時ころから開かれた職場大会において秋山ら組合幹部ほか出席していた多数の組合員らとともに会社側による営業車ことにプロパン車の社外搬出を防止するため、その車輪を取り外す等の手段を強行すべく協議の結果、ここに判示のような共謀が成立した事実は明らかである。

ロ  弁護人は、二月一日の職場大会において車輪取り外しの戦術が決定された際、被告人柏木、同平林は上部団体、政党等に情勢を報告して支援を求めるべく渋谷区内を行動していたため、その席にはいなかつたかの如き主張をしている(冒陳第三、四、(3)参照)けれども、

(1)前記イ、(1)および(2)に示した各記載

(2)証人戸栗専三が当公判廷において「昭和三九年一月終りころ自分が渋谷電話局にいたとき柏木ほか一、二名の者が、実は今ロツクアウトをくつて大変なことになつた、といつて来たが、それは時間にして午前一一時半を一、二分すぎたころである」旨(一二冊、五ないし一一丁)述べていること

(3)証人杉山幸太郎もまた当公判廷において「柏木および平林が昭和三九年二月一日渋谷区労協に訪ねて来たのは一二時を若干まわつていたと記憶する」旨(一二冊、九丁)供述していること

等を総合すると、右被告人らは、前掲証拠標目記載の各証拠によつて認められる本件謀議の際には、いずれもその場に居合わせ、被告人柏木のごときは本件車輪撤去の謀議のてん末を組合役員として自ら克明にノートに記載し、被告人平林もまたその際「車を確保すべきだ」などと発言して積極的にこれに賛同している事実が明らかであつて、この点証人秋山源二の証言(一三冊、三一一ないし三一二、五三五ないし五三六丁)ならびに同森脇三郎の証言(一一冊、八二ないし八五丁)によると、いずれも右被告人柏木および同平林(そのほか、被告人真井および同鶴見についても同様)が、前記職場大会における謀議の際その現場に居合わさなかつたともうけとれるような趣旨の供述をしているけれども、前記証拠に対比すると、その証明力は薄弱であるといわなければならない。〔なお、証人秋山源二は、一方では「松本事務所で組合からいつた執行部の者(被告人真井、時目、日高)は、タイヤ外しの報告について、事情を聞かれて、それはちよつと問題があるんじやないか、と言われたと、あとで報告を受けた」旨(一三冊、五四〇ないし五四一丁)供述しているが、このこと自体、右組合執行部の者が右車輪取り外しの協議の際その場に居合わせその成行きを熟知していたことを推認させるに足るものと思われる。〕。要するに、被告人柏木、同平林らが右謀議に参画していたことは、証拠判断上明らかであると考える。

2  実行行為について

検察官は、本件車輪取り外しの実行について被告人真井、同鶴見、同平林の三名は、直接その実行行為に加担したものと推認されると主張しているから(論告五四頁参照)、以下順次この点について当裁判所の認定を補足説明する。

イ  被告人真井の行動について

まず証人十河京一は当公判廷において、「二月一日午前一一時一〇分か一五分ころ出社したところ、プロパン車が横にされてタイヤが外されており、ピツトの上におかれた一台もタイヤが外されていた(五冊、二一五ないし二一七丁)。そのピツトの上の車両の左後車輪の横に組合員の杉本がおり、その左前方側面に鶴見がいた。左前車輪のすぐ左側に大川不二夫がおり、車首の左側に伊藤七郎がおり、車のななめ後に真井がいた。また車の右ななめの前には森田がいたし、そのほか第一ガレージと修理工場の境には、芝崎、勝倉そのほか二、三名の者がいた(五冊、二二六ないし二二九丁)。鶴見はしやがんで杉本が作業するのを手伝つていた(五冊、二三〇丁)。真井は中腰になつて自分の方を見ていた(五冊、二三三丁)。直接車輪を外したのは見ていないが、ピツトのところに真井がいたことは間違いない」(五冊、三七八丁)旨証言している。ところで同証人が証言しているのは、修理工場の状況であるが、同一場所について、ほかに証言している証人は、証人安藤一夫および岩田年敬である。ところが、当日午前中に十河社長を荻窪の自宅から自家用車にのせて会社まで運転して来たという右安藤証人は、同日の午前中、ピツトの付近で被告人真井や被告人鶴見の姿を見たとは言つておらず、むしろ「当日午前出社したときピツトのところに真井がいたかどうか記憶していない」と証言している(六冊、六二ないし六三丁)。また証人岩田年敬は、「プロパン車の六一―六七号車を第一車庫からピツトに運んだのを見た。何人で運んだか判らないが、もうすでに入れおわつたころで、少し後ろの方が出ていた。それを二階から見たが組合員の中に鶴見がいて同人は、その車の後ろの方にいた」(七冊、一一七ないし一一八丁)と証言するだけであつて、被告人真井の姿を見たとは言つていない。そうなると、前記十河証言には、必ずしも全幅の信用をおき難いようにもおもわれる。しかしながらし細に検討してみると必ずしもそうではない。まず証人安藤一夫の証言からも窺われるように、(六冊、二四ないし三〇丁)同人は、運転して来た車を、十河社長を降してから、そのまま第四車庫のさらに向う側にある細い路地(第四車庫の渋谷寄り)に置き、そのときしばらくの間第四車庫内のプロパン車の状況を現認し、それからすぐその裏を通つて第一車庫に出て、その後でピツトの状況を目撃したのであるが、そのころはすでに十河社長は二階に登つており、修理工場内における車輪取り外し作業も、ほぼ終りかけており、付近にいた組合員も、大川不二夫、菊地、それに被告人平林の三人ぐらいとなつていたというのであるから、そのことから判断すると、同証人がピツト付近の状況を現認した時点は、十河証人の現認した時点より若干後にずれていることがわかる。そうだとすると、右両証人の各証言は、必ずしも二者択一の関係に立つているものとも思われない。また証人岩田年敬の前示供述自体からも明らかなごとく、同証人は二階事務所から目撃した状況を証言しているのであつて、右二階の事務所からは、階下の修理工場の状況を逐一見とおすことができない場所的関係にあるから、同証人が被告人真井の姿を見ていなかつたとしても、それだからといつてただちに前示十河証言の信ぴよう性を否定する根拠にはならない。むしろ右岩田証言は、被告人鶴見が六一―六七号車の後方にいたのを見たというのであるから、その点ではむしろ十河証言とも符合しているのである。しかも岩田証言によれば、同人は組合員ら第一車庫から第四車庫へ車を移動させていたころ一時階下に降りていつたところ、たまたま居合わせた一組合員から自家用車のキイを貸してくれと言われ、その際第一車庫や第四車庫の様子を一瞥したことが窺われるが、それも短時間のことでその後間もなく二階の事務所に立ち戻り、窓越しに前記のとおりピツトに移動されたプロパン六一―六七号車の状況を見たわけであるから、同証人がその階下にいたわずかの間にたまたま直接被告人真井の姿を見かけなかつたとしても、それはそれとしてあながち不自然なことではない(七冊、一〇六ないし一一七丁)。

なお、検察側証人である佐藤浩次郎、白洲富久子、牧真人の各供述によると、同人らはいずれも、二月一日の午前中は、二階事務所に居て、折りから階下正面の第一車庫で行われていた車輪取り外しの状況を目撃しているが、その際いずれも被告人真井の姿を目にしているものはない。これはたしかに一考に値することである。しかしながらおもうにこれらの証人は、いずれもみずから供述しているとおり、当時なるべく組合員らを刺激したくないという気持ちから〔佐藤(六冊、一二八丁)牧(七冊、主尋九三丁)白洲(七冊、四八丁)参照〕ときおり階下の光景を窓越しに遠距離から瞥見した程度にすぎず、しかもその視野の範囲も前記第一車庫のきわめて限られた一小部分であつて、それ以外の修理工場内はもとより、第二又は第四車庫等の状況は視界外にあり、一方当時第一車庫には視野をさえぎるような相当数の車が並んでいたこと等の事情を考慮に入れると、右証人らの所見が必ずしも正確な状況を伝えるものともいえないであろう。そうだとすると、当時右ピツトの現場付近に被告人鶴見とともに被告人真井もいたという十河証言の信ぴよう力を排斥する理由はない。

証人森脇三郎、同秋山源二の右認定に牴触する趣旨の供述部分は、これを前記1、ロに記載したところと右十河証言とに対比して考えると、未だ右心証を動かすに足りない。

すなわち、右十河証言と同日夕刻被告人真井が長さ四、五〇糎の鉄棒状のものをもつて先頭にたち、六、七名の組合員とともに互に「車をもつと外ずしちやえ」などといいながら第二車庫から第四車庫に行くのを見たという証人安藤一夫の証言(六冊、三〇ないし三五丁)とを総合すれば、昭和三九年二月一日の被告人真井が、―具体的に本件車輪取り外しの実行行為それ自体に加功したかどうかは証拠上必ずしも明白ではないけれども、―少くとも判示認定の限度において本件共謀にもとづく実行行為に協力したことは疑いないものと思われる。

ロ  被告人鶴見の行動について

被告人鶴見が本件犯行当時、修理工場内のピツトの上にあつたプロパン車の付近にいたことは、前記イにおける説明によりおのずから明らかなごとく、証人十河京一ならびに同岩田年敬の各証言によりこれを認めることができる。そして、この事実に証人佐藤浩次郎の「その日事務所のガラス越しに見たところ、第一車庫よりもやや奥で上岡の並びの位置に事務所の方を向いて鶴見と平林がいた」(六冊、一三二、二八四丁)「平林、鶴見は言葉は判らないが、何か指をさすような情景であつた」(六冊、一三七丁)旨の証言(ただし、同証言中、時刻の点については後段ハにおいてこれに論究する。)を総合すると、被告人鶴見においても被告人真井におけると同様の意味において、本件車輪取り外しの共謀に基く実行行為に協力したことは明らかであると考える。

ハ  被告人平林の行動について

つぎに、被告人平林の行動については、先にも一言したごとく、証人佐藤浩次郎が「第一車庫で上岡の並びの位置に事務所の方を向いて鶴見と平林がいた」(六冊、一三三、二八四丁)「平林、鶴見は言葉は判らないが、何か指をさすような情景であつた」(六冊、一三七丁)旨を証言しているほか、証人安藤一夫が「二月一日ピツトの上のプロパン車を見たさい、左側の前後車輪が外されていて、その近くにオイルジヤツキがおいてあり、そこに大川不二夫がおり、傾かないように角材を車体と地面の間にはさんでおり、その近くにやはり菊地が立つていた。それから車の後ろの方に平林がいて後ろの方から車体の傾きかげんか、それとも角材をはさむ具合をのぞくように見ていた」(六冊、二九ないし三〇、六八丁)旨供述している。

ところで被告人平林が二月一日午前八時ころから開催された職場大会に出席し、判示のごとき車輪取り外しの共謀に加担したと認められることは、前に説明したとおりである。しかしながら、その際にも一言したごとく、前記証人戸栗専三の証言によると、被告人平林は、二月一日午前一一時半を一、二分すぎたころ、被告人柏木とともに、渋谷区猿楽町一番地所在の渋谷電話局に赴き、当時区労協副議長をしていた戸栗専三に面会していることが、窺われるから、この点に関連して、右佐藤証言および安藤証言の信ぴよう性を検討してみる必要がある。すなわち、証人佐藤浩次郎によると、「当日組合員が二階の仮眠室から騒ぞうしい足音をたてておりたのは、自分が来て、そう時間がたたないころで、午前一一時半から一二時この時間だ」というのである。(六冊、一二五ないし一二六丁)しかも同証人は、「当日午前一一時ころに出社したように思うが、そのころ組合員は『第二仮眠所』に集合していた」(六冊、一二四ないし一二五丁)というのであるから、同証人によると、同人が出社したころには、未だ、組合員らによる本件車輪取り外しの犯行が行なわれていなかつたということになる。しかしながら証人岩田年敬(七冊、九九丁)、同白洲富久子(七冊、四六丁)の各証言によると同日午前一〇時ころから組合員が階段を降りていつて、車輪取り外しが始まつたというのであり、他方証人十河京一の供述によると、同人が当日車で出社した時刻は午前一一時一〇分か一五分ころであり、そのころにはすでに相当車輪が取り外されていたというのであるから、これらの各証言と対比して、前記佐藤浩次郎の証言する「午前一一時半から一二時ころ」という時刻の点が果して正確なものかどうかが、まず検討されなければならない。二月一日の職場大会が午前八時に招集され、間もなく開催されたことは、押収してある昭和三九年二月一日付申入書(前同押号の五)、柏木ノート(同押号の一一)、証人上岡忠三、同安藤陸夫、同白洲富久子、同牧真人、同森脇三郎の各証言に徴し疑いないところであり、一方証人十河京一(五冊、二四〇ないし二四一丁)、同秋山源二(一三冊、四九三ないし四九七丁)の各証言ならびに前記秋山議事録(前同押号の一〇)の記載によると、その後十河社長が会社内の二階事務室に組合側の執行委員長と書記長を呼んで「車両を昨日の状態に戻せ、車輪をつけろ」などと厳重な申入れをしたのは、疑いもなく同日の午前中で、およそ一一時半ころと認められるから、これに前記証人岩田年敬、同白洲富久子の各供述を総合して考えると、少くともそれ以前には、すでに一応車輪取り外しの犯行が一段落していたと考えても不合理ではない。そうだとすると前記佐藤証言中の「午前一一時半から一二時ころの時間だ」という点は、正確なものではないということになる。もつとも前記柏木ノート(前同押号の一一)には「午後一時頃会社より申入あり」(同ノート二二枚目裏参照)との記載があるけれども、証人十河京一の供述によると、同人は右の申入れをした後、間もなく渋谷警察署に出頭して事犯の申告をしているがその際同署に到着した時刻が正午すぎであつたというのであり(五冊、二四七丁)、他方証人木村政治の供述によつても、当日十河京一の取調べを同日の午後一時ころから四時半ころまでの間に実施したことが認められる(四冊、四丁)から、右柏木ノートに記載された「午後一時頃」という時刻も、また、必ずしも正確を期しがたいものといわなければならない。

さらに、証人安藤一夫は、「自分が社長を迎えて会社に帰つて来たのは、二月一日の昼すぎ、一二時か一時、二時ぐらいではないかと思う」旨(六冊、六八丁)を述べているが、同証人の右時刻の点についての供述も、また、前段の説明に徴して正確なものとはいいがたく、むしろ前示十河証言等によれば、右安藤が修理工場内のピツトの状況を目撃したのは、おそくとも当日の午前一一時一五分前後と推認されるのである。

してみると、前記佐藤証言および安藤証言については、同人らが供述している時刻の点だけを基準にすれば、明らかに前記戸栗証言等と矛盾するが、すでに説明したように、右佐藤ならびに安藤の両証言中、その時刻に関する部分は、ともに正確性を欠くものと認められるから、これあるが故に、おしなべて右佐藤および安藤両証言の全体についてまで、その信ぴよう性を否定することは正当でない。

ところで、右証人戸栗専三によると、当日被告人柏木ら(平林を含む。)は、車で来たといつていたように記憶する。もし車で来たとすれば都民交通から電話局までは、自分のところを捜したとしても一五、六分で来られる。普通なら一〇分程度で来られる(一二冊、二一ないし二二丁)、というのである。そうだとすると、当日被告人平林が前記のごとく午前一一時一五分すぎころ、すなわち安藤証人の目撃したような状況の後で会社を出発して渋谷電話局に行つたとしても同日午前一一時三〇分すぎには到着できる時間的余裕があつたこととなり、他方前記佐藤証言および安藤証言中、時刻の点を除くその余の関係部分は、少くとも被告人平林の行動について直接目撃した状況をかなり具体的にしかも格別作為的な跡もなく述べていると思われるところから判断すると、あながち客観的事実に反する不正確な証言とは考えられない。以上検討した結果からも明らかなとおり、関係証拠を総合して合理的に判断すると、判示認定の限度において被告人平林についても、また、被告人真井および同鶴見におけると同様の意味において、本件車輪取り外しの共謀に基く実行行為に協力したことはこれを認めなければならない。

第五刑訴法三三五条二項の主張について

一  弁護人の主張

弁護人は、被告人らの本件車輪取り外しの行為は、タクシー業界の労働争議において車検キイの保管とともに全自交傘下の各単組において、従来からとられて来た斗争戦術を踏襲したにすぎず、一月三一日午後会社側が組合員の就労を拒否し、しかも、自発的に就労した組合員の納金の受入れをも肯ぜず、一方においてはガソリンの給油先との取引を停止するとともに、他方、会社内の修理工場の鉄扉に施錠して十河社長自身「今回は断固組合を叩く」と公言していたのであるから、これによつても明らかなごとく会社側において企図していた違法なロツク・アウトに対抗して行なわれた正当な争議行為であつて、労働組合法一条二項により、違法性が阻却され、右被告人らは無罪であると主張する。

二  当裁判所の判断

おもうにいわゆる労働争議は、労使間の相対的に流動する複雑な法律関係であつて、したがつて、その正当性の判断にあたつても、いたずらに従来の固定した法律観念にとらわれることなく、あくまでも、具体的事案に則し、当該争議行為の目的と態様の両側面から合理的に総合評価すべきものであると考える。(最高裁昭和二五年一一月一五日判決刑集四巻一一号二二五七頁参照)。したがつて、たとえば争議の態様にさ細な行きすぎがあつたからといつて、ただちにこれを捉えて労働者の地位の向上等本来正当な目的に出た当該争議行為そのものの目的、態様についての慎重な認定、評価を尽さないでたやすくこれを違法視することはできないであろう。しかして、本件事犯に至るまでの争議の経過については、先に認定したとおりであつて、対自運労関係にまつわる人員確保の問題、本件ストライキ解除通告後における事態収拾処理の問題についての会社側の措置が必ずしも策の当を得たものでないとの批判はありうるであろう。そして、また、前掲証拠標目記載の各証拠によると、本件争議を契機として、会社側がロツク・アウトにも似た強硬な措置をとるのではないかとの疑惑を組合側に抱かせるような気配のあつたことが窺われないでもないようである。しかしながら、他方、被告人ら組合側としては、当時、ともかく、すでに会社所有のガソリン車全部のほか、本件プロパン車一二台の中その大半の車検とキイ(本件では前に認定したように車検一〇通、キイ四個)をその手に確保している。(キイについてはスペアキイが会社側にあるから、本件において重要な意味をもつのは、いうまでもなく車検である。)そして会社側が事実上重要な人的給源として依存していた自運労幹部も被告人ら組合側の立場を十分理解していたものと察せられる。会社側による車両の社外搬出は、いうべくして行われがたい情勢であり、また、現に、当時その危険が目しようの間に迫つていたものとは到底認められないところである。このような情勢ないし時点の下において被告人ら組合側が、いかに争議を有利に導くための考慮に出たものとはいえ、判示認定のように八台のプロパン車の車輪を撤去したうえ、そのナツトの所在をも不明ならしめ、右八台を含む合計一二台のプロパン車の移動、出庫はもち論、洗車、整備等車両の管理に必要な措置をとることを全く不可能にしてしまうような行為にまで出ることは、本件争議行為の目的、態様を合理的に総合評価する建前の上からみても、決して正当な行為とはいえないばかりか、また、いわゆる、さ細な行きすぎに止まるものでもなく、労働組合法一条二項但書にいわゆる暴力の行使に該当するものとして、正当な意味における労使対等の原則を破る違法な争議行為といわざるをえない。弁護人は、本件のごとき車輪の取り外し行為は、その原状回復が極めて容易であつて、しかも車両自体になんらの損傷を与えるものではないから、いわゆる「毀棄」にも該当しないと同時に労働組合法一条二項にいう「暴力の行使」にもあたらないと主張するけれども、元来、刑法二六一条にいう「損壊又は傷害」は、物の効用を全部又は一部滅却することをいい、原状回復の難易は毀棄罪の成否に影響がない(大審院昭和八年一一月八日判決刑集一二巻一九三一頁、最高裁昭和二五年四月二一日二小判決刑集四巻四号六五八頁、最高裁昭和三二年四月四日一小判決刑集一一巻四号一三二七頁参照)のみならず、本件においては、被告人らを含む多数の組合員らが手分けして車輪を撤去したうえ、そのナツトの所在を不明ならしめたのであるから、四囲の情勢上、被害者たる会社側にとつては、その原状回復が容易なことであるとは認められないから、たとえば単にビラを室内の板壁や、白壁の下部の腰板あるいは室内硝子窓等にメリケン粉製の糊で貼りつけた場合など(最高裁昭和三九年一一月二四日三小判決刑集一八巻九号六一〇頁参照)と異り、被告人らの本件所為がいわゆる「毀棄」に該当しないということはできない。したがつて被告人らの右本件行為は結局前示労働組合法の前記法条の精神に違反し、その正当性を欠くものと思われるから弁護人の右主張は、これを採用することができない。

第六法律の適用

被告人柏木、同真井、同鶴見、同平林の判示所為中、威力業務妨害の点は包括して刑法二三四条、二三三条、罰金等臨時措置法三条一項、刑法六〇条に、数人共同して刑法二六一条の罪を犯した点は、包括して暴力行為等処罰に関する法律一条一項、罰金等臨時措置法三条一項、刑法六〇条にそれぞれ該当するが、右は一個の行為にして数個の罪名に触れる場合であかるら刑法五四条一項前段一〇条により重い威力業務妨害罪の刑に従つて処断し、所定刑中、いずれも後記量刑の事情を考慮したうえ、罰金刑を選択し、その罰金額の範囲内において被告人柏木、同真井を各罰金四万円に、被告人鶴見を罰金三万円に、被告人平林を罰金二万円にそれぞれ処し、右被告人らにおいて、右罰金を完納することができないときは、同法一八条一項、四項を適用して、いずれも金五〇〇円を一日に換算した期間当該被告人を労役場に留置し、訴訟費用については、刑訴法一八一条一項本文により証人鈴木進に支給した分は被告人平林の単独負担とし、証人田村千代子、同大川忠男、同佐藤富子、同田村秀子、証人兼鑑定人太田芳夫に各支給した分を除くその余は、さらに同法一八二条を適用して被告人柏木、同真井、同鶴見、同平林に連帯して負担させることとする。

第七被告人らに対する無罪の理由

一  公訴事実の要旨

被告人柏木、同真井、同鶴見、同三浦に対する昭和三九年三月二三日付起訴状公訴事実中一および被告人平林に対する同年三月二六日付起訴状公訴事実中一の各要旨は、被告人らは都民交通労働組合において昭和三八年一二月三一日から都民交通株式会社に対しタクシー料金改定に伴なう給与改訂等を要求してきたところ、会社側の回答を不満とし同盟罷業を決行するほか右会社所有の営業用乗用自動車を組合の実力支配下におくことにより同会社の意図を制圧して右要求を有利に展開しようと企図し、同組合執行委員長秋山源二ほか多数の組合員と共謀のうえ、昭和三九年一月三〇日午前二時ころから翌三一日午前一〇時ころまでの間に右会社車庫において、組合員多数とともに別紙一覧表記載の各営業用乗用自動車に付属する自動車検査証計三五通およびエンジンキイ計二九個をほしいままに取り上げてこれを抑留し、さらに三一日午後二時ころから同四時ころまでの間にわたり右会社事務所において、社長十河京一から右自動車検査証およびエンジンキイのうち別紙一覧表中1ないし33記載の分について即時返還を要求されたにもかかわらず、同社長に対し、組合員多数の威力をもつてこれを拒絶し、そのうえ、同日午後四時ころ被告人柏木定治が、かねて会社側において被告人側より取り戻したうえで右事務所内カウンター上の自動車検査証等保管箱に収納しておいた同表中34ないし36記載の各営業用乗用自動車に付属する自動車検査証計三通、エンジンキイ計三個を発見し、これを奪取しようとしたので右社長においてこれを阻止しようとしたところ、被告人真井俊一郎が同社長の前に立ち塞がつて同人を押し戻し、その隙に被告人柏木定治がこれを奪取し、なおもこれを取り還えそうとする右社長に対し、被告人真井俊一郎同鶴見輝行および同三浦秀夫が右社長の前に立ち塞がつて同人を押し戻すなどしてこれを妨害し、よつて、同表記載の各営業用乗用自動車に付属する自動車検査証計三五通、エンジンキイ計二九個の抑留をつづけて該自動車を運行の用に供し得なくし、もつて威力を用いて同会社の右営業用自動車運行の業務を妨害したというのである。

二  当裁判所の判断

1  本件争議にいたるまでの経緯

右各公訴事実主張にかかる本件争議にいたるまでの経緯については、すでに判示第二において論及したとおりである。

2  車検とキイの保管について

イ  いわゆる「共謀」について

まず、検察官は被告人らは、昭和三九年一月二七日の臨時組合大会および同月三〇日の斗争委員会において、組合執行委員長秋山源二ほか多数の組合員と会社所有の車検およびキイを取り上げて抑留することの謀議が成立したものと主張する。

ところで、

(1)判示認定のごとく、被告人らの組合においては、昭和三九年一月二七日、被告人ら全員のほか、執行委員長秋山源二ら組合幹部ならびに一般組合員ら合計四三名が出席して臨時組合大会を開催し、討議の結果、いわゆるスト権を確立するとともに、被告人真井、同平林および芝崎栄一の三名が斗争委員に選任され、また、自運労に対し申入れをすることの決定に基き、同日午後三時ころ秋山および被告人三浦の両名から自運労東京支部執行委員長金井仁に対し、判示のような協力方要請の申入れをしたこと

(2)ついで一月三〇日判示のように、被告人ら全員および右秋山ら組合幹部が出席して全体斗争委員会を開き、その席上、前記秋山議事録(前同押号の一〇)および柏木ノート(同押号の一一)の各記載によつて明らかなとおり、具体的斗争戦術の一環として、とくに「車検とキイの問題」を取り上げ、これに対し、「決定」を下していること

(3)さらに右柏木ノートの記載によると、翌一月三一日の職場大会における確認事項として「車検キイは確保ずみ」と記載されており、これによれば、右一月三〇日の決定が予定のごとく実行されたことを組合員一同に報告されたものと認められること

(4)他方証人佐藤浩次郎(六冊、四六ないし七〇丁)および同岩田年敬の各証言(七冊、一八ないし四八丁)によると、一月三一日午前九時一〇分ころから約二〇分間位、会社近辺の路上で、被告人鶴見同平林の両名が帰庫して来る自運労運転者からプロパン車の車検とキイを回収していたこと、その後、同日午前中、右佐藤および岩田が新メーター器取りつけの所用で三和メーターに赴くため会社二階の仮眠所で被告人柏木、同平林に対し関係ガソリン車四台(品五あ一二二九号、一二三〇号、一五九四号、および六七七五号)(別紙一覧表17および34、35、36に記載のもの)の車検とキイの引渡しを求めたところ、被告人平林が所携の黒のビニール製鞄からこれらをぬき取つて渡してくれたことなどからみると、当時幹部においては、後段ロ記載のごとくガソリン車の車検とキイはもち論、プロパン車の一部についてもこれを一括して保管していたことが認められること

以上の各事実に証人上岡忠三(八冊、二四ないし三五丁)同安藤陸夫(八冊、二三ないし二六丁)同秋山源二(一三冊、二三六ないし二四七丁、四〇五ないし四〇七丁)同森脇三郎(一一冊、一七ないし一八丁)の各証言を総合すると、被告人ら全員ならびに秋山源二ら組合幹部のほか多数組合員においては、一月二七日いわゆるスト権確立の当時からすでに来る一月三一日ころをめどにストライキに突入することを予定し、その際、争議の手段として各車両の車検とキイを組合側において保管することを当然のこととして暗黙のうちに了解し、その後さらに一月三〇日の全体斗争委員会において、被告人ら全員および右秋山ら組合幹部において、最終的に、右事項を確認するとともに、なお自運労運転者の乗務するプロパン車の車検、キイについても、これを組合側が一括保管することにし、その具体策を協議決定したことが認められるに止まり、検察官主張のように、一月二七日の臨時組合大会において、すでに車検とキイの一括保管が組合の決定事項の形式で討議決定されたということまでは、未だ必ずしも明らかではない。しかしながらいずれにしても被告人全員および秋山ら組合幹部ならびに一般組合員らの間においては、一月二七日ころから一月三〇日ころまでの間において、本件争議の手段とし会社所有の車検ならびにキイを組合側において一括保管するについての了解ないし協議が成立していたことはまちがいないものと思われる。検察官は、いわゆる「共謀の内容」として「組合による車検およびキイの管理抑留の共謀は、当然会社側から車検およびキイの返還を求められた場合にはこれを拒絶し、あるいは車検およびキイの抑留管理に際し会社側の抵抗があつた場合にはこれを排除することを含んでいたものと解する」と主張し、本件一月三一日の会社事務所内における被告人ら組合員による車検、キイの返還拒絶さらに車検、キイのいわゆる奪取についてまでも、これをこれら車検、キイの保管行為に当然包含される事前の共謀に基く行為であるとしている(論告一〇ないし一三丁参照)。しかしながら被告人らにかかる包括的な犯意が最初からあつたと認むべき確証はなく、むしろ従来被告人らの組合側において主なる争議の都度車検、キイの保管抑留を会社側との斗争戦術として行なつたことはあつても、会社側からそれがため、その返還を迫まられたこともなかつたのであるから(秋山証言、一三冊、五六ないし七三丁参照)、当時格別の事情の認められなかつた本件争議において、被告人ら組合員が将来あるべき会社側の返還要求その他に対し、予め強力な対抗策を準備していたとか、さらに会社側から何らかの機会に車検とキイの回収をされた場合に、これを実力で奪回を図るという事前の方策までも考慮に入れていたということは、たやすく推認することができないから、検察官の右趣旨の主張を採用することはできない。

ロ  車検とキイの保管

しこうして、本件当時、会社所有の車両は判示のごとく、ガソリン車二五台、プロパン車一二台合計三七台であつたが、証人十河京一(五冊二〇ないし三七丁、一二七ないし一四一丁)、および同牧真人(七冊、主尋一一ない二三丁)の各証言、東京都陸運事務所長作成の当裁判所に対する回答書三通(四冊)ならびに、前段イ認定の結果を総合すると、被告人ら組合側においては、一月三一日のストライキにそなえ前示のような車検とキイの回収、保管についての戦術の決定にもとづき一月三一日の未明から同日午前一〇時ころまでの間にわたり、帰庫する組合員その他自運労運転者から各自の車検とキイを回収する一方、これに対抗して会社側においても同日午前九時すぎころから活動を始め、結局六一―六五号車ほか一両の車検計二通と六一―六六号車ほか七両のキイ計八個(いずれもプロパン車)を回収することができたが、別紙一覧表記載のように、その余のガソリン車二五台分の車検とキイ、ならびにプロパン車の車検一〇通キイ四個については、すべてこれを組合側において保管するにいたつた事実が明らかである。検察官は、一月三〇日午前二時ころからすでに被告人ら組合側において車検とキイの保管回収を実施したと主張し、証人岡野栄の証言(九冊、三二ないし三七丁)を援用しているけれども、他の関係証拠に対比して、未だこれを確認することができない。

3  一月三一日における会社事務所内の状況

イ  ストライキ解除の際の状況

被告人らの組合側では、一月三一日午前八時を期してストライキに突入したが、つづいて開催した臨時組合大会において、同日のストライキをかねての予定どおり四時間で中止することを決定し、同日午後二時すぎごろ前記秋山ら組合三役が十河社長に対し一四時現在をもつて右ストライキを中止し平常の業務に復する旨を通告したことは、判示認定のとおりである。

ところで、証人十河京一(五冊、一四五ないし一五七丁)同岩田年敬(七冊、五八ないし六一丁)同白洲富久子(七冊、九ないし一五丁)同牧真人(七冊、主尋三一ないし三五丁)(八冊、反尋七ないし九丁)同森脇三郎(一一冊、四〇ない四六丁、一六四ないし一六八丁)、同秋山源二(一三冊、二五五ないし二六三丁、四一九ないし四三二丁)の各証言と被告人柏木の当公判廷における供述(一六冊、八三ないし八六丁)を総合すると、その際、十河社長は会社二階の事務所内において前記のとおり、被告人柏木をはじめ秋山、時目らの組合三役がストライキの中止を通告するとともに、これからいつものよう仕事に出るから日報を出してもらいたい、と要請したのに対し、「就労するんならいつたん車検とキイを返えしてから、あらためて会社の営業係りの指示に従つて就労しなさい」と申し向けて強硬な態度を示したため「車検とキイは争議行為だから返えさない」という右組合三役らとの間で押問答がくりかえされ、その間、十河社長は、「二四時間の通告をしたから四時間でやめることは法律的にもできない」とか、「二四時間のストライキの通告も最初に出ているのだから、車検とキイを返さないのならそのままでいい」とかいうような趣旨のことも言い出したりして、二、三十分間位しても結着がつかないため、右秋山ら三役はやむなく、いつたん組合員らのいる大型仮眠所に引きあげていつた経過が認められるが、その段階では未だ他の被告人や組合員らは事務所の近辺に姿を見せておらず、したがつて別段これといつて喧騒にわたるようなこともなかつた事実が明らかである。

ロ  車検とキイの返還拒絶の状況

証人十河京一(五冊、一五一ないし二一五丁、三二九ないし三七七丁、五四三ないし五六七丁)同佐藤浩次郎(六冊、四五ないし一二三丁、二五二ないし二七九丁、二八八ないし二九六丁)同安藤一夫(六冊、一五ないし二三丁、五七ないし五九丁)同岩田年敬(七冊、三七ないし九六丁、一八七ないし一九八丁、二二一ないし二四八丁)同白洲富久子(七冊、一二ないし四四丁、六一ないし七八丁)同牧真人(七冊、主尋三三ないし八七丁)(八冊、反尋八ないし五〇丁、九八ないし一一五丁)同大川義郎(一二冊、二ないし一五丁、四〇ないし六一丁)、同秋山源二(一三冊、二六三ないし二八三丁、四三二ないし四八八丁)、同杉崎正雄(四冊)の各証言、被告人柏木の当公判廷における供述(一五冊、八六ないし一三九丁)、司法警察員作成の実況見分調書(六冊)、杉崎正雄撮影にかかる写真九葉(六冊)、柏木ノート(前同押号の一一)の記載を総合すると、前記のような経過をたどつていつたん右組合三役は大型仮眠所に引きあげ、おりから出庫を予定してなかば解散しかけていた組合員に対し、右十河社長との交渉のてん末を報告したところ、一同会社側の措置に激昂して改めて強く出庫方の要請をすることになつたこと。その結果被告人柏木ら三役が先頭となり、多数組合員らとともに、事務所内の十河社長のもとに押しかけ、被告人真井、同鶴見、同三浦らとともにこもごも「ストが終つたんだから仕事に出せ」「出せないんだつたら賃金を補償するのがあたりまえだ」などとこもごも詰めより、他方、また事務所前廊下の辺りに詰めかけていた多数の組合員も口ぐちに「よその社長は車を出すといつたらよろこぶのにストをやれというのか」などとこれに呼応して喧騒をきわめていたこと。一方、これに対し十河社長は、依然として、「車検を全部返えせば仕事に出す」などと言い張つて、出庫するにはあくまでも車検の返還が前提であるとの主張を固持して譲らなかつたため、再び組合員全員がその場から前記仮眠所に引きあげ被告人柏木らが中心となり日報なしにでも出庫についての具体的方策を検討していたが、その間午後三時ころ、被告人真井、同鶴見、同平林その他二、三の組合幹部は、階下の第一車庫に赴きオイルジヤツキ等を使用して出庫の準備をしていたこと。ところが、そのころ会社側から重大な申入れをすると称して、被告人柏木ら組合三役を事務所隣りの社長室に呼び入れたうえ、その場であらためて十河社長から「私の手におえない、警察にまかせる」「刑事問題として処理する」などと警告を与え、その際右三役からなおもくりかえし出庫方を要請したが、頑としてその態度を変えなかつたため、たまりかねた被告人柏木は「車を出す」と言い捨てたままひとり社長室を出、もとの仮眠所に立ち戻つてきたこと。そこで被告人柏木は、その仮眠所にいた組合員らに対して強行出庫の方針を謀つたが、ともかくいま一度営業課長佐藤浩次郎に日報の交付方を要請しようということになつて、同被告人ならびに被告人真井らが先頭に立つて多数の組合員らが廊下伝いに再び前記事務所に押しかけ、被告人柏木が佐藤に対し、営業課長の権限で日報を出してくれなどと言つて詰めよつたところ、騒ぎをききつけて社長室から出て来た十河社長が、「日報は絶対渡してはいけないぞ」と強くたしなめながらそのまま事務所内のカウンターの方向に進み寄り、廊下の方向を向いて業務課長牧真人の机に寄りかかるように腰をおろし、続いて社長室から出てきた秋山、時目の両名はそのまま同社長室出入口の近辺に立つていたこと。被告人柏木は十河社長に対し、なおも日報の交付方をしつように迫つていたが、そのころ被告人真井はカウンター用の丸椅子に十河社長と対面するような形で腰をおろしており、被告人柏木は被告人真井の左側付近に立つて事務所内を向いており、被告人三浦は事務所入口付近のカウンター寄りで被告人柏木のやや後方に立つて同じく事務所内を向いており、被告人鶴見は十河社長の方向を向いて右事務所入口の扉付近に立つており、他方被告人平林もまた、多数組合員にまじつて廊下のカウター寄りの個所に立つていたこと、そして、その付近につめかけていた組合員らも口ぐちに「もう出ようじやないか」「もう出よう出よう」などと立ち騒いでいたことがそれぞれ認められる。右の事実は、ひつきよう被告人柏木ら組合三役のほか前記組合員らに向つてくりかえし車検とキイをいつたん会社に返還しなければ、出庫を認めないと言つて強くその返還を要求していた十河社長に対し、被告人ら全員が秋山ら多数の組合員とその場で互に意思相通じ、口ぐちに「仕事に出せ」「日報を出せ」などと喧騒し、同社長に威圧を加えて右車検とキイの返還要求に応じなかつたものと認めることができる。

ハ  車検、キイの奪取の状況

前記口掲記の各証拠によれば、前述の二当裁判所の判断中の2、イ(4)で認定したように、営業課長佐藤浩次郎が当日午前中被告人柏木および同平林の両名から受けとつた四組の車検とキイのうち、別紙一覧表34、35、36記載のものを用済み後、組合側に別段話もしないまま、ひそかに事務所内のカウンターの片隅に設けられていた自動車検査証等保管箱の中に差し入れておいたのであるが、(右四組の車検とキイのうち別紙一覧表17記載の分は、これより先すでに組合側に返還されていた。)その後前段認定のごとく、前記事務所内のカウンター付近で十河社長と応しゆうしていた被告人柏木がたまたま同日午後三時半すぎころ右保管箱中に収納してある前記三組の車検とキイを入れたビニール袋三個を発見するや、「これをもらつていく」と言いながら被告人真井の後方から右手を延ばしてすばやくこれを取り上げそのままこれを持つて事務所の出入口から廊下に立ち去ろうとしたこと、これを見た十河社長もいきなり立ち上がり、左手を延ばして当時右保管箱の釘にかけてあつた自家用車のキイを取つたが、その際同時に椅子から立ち上つつた被告人真井の身体と接触して一瞬後方によろけたが、すぐ立ち直り、直ちに被告人柏木の跡を追おうとして半歩ぐらい片足を踏み出したとたん、前記位置にいた被告人三浦および同鶴見が同社長の前に出てその行手を阻んだため、結局追跡を断念して後退するのやむなきにいたつたこと。その間に被告人柏木は室外に姿を消したが、一方あとに残つた被告人真井、同三浦、同鶴見らは、なおも「日報を出せ」などといつて十河社長と押問答をしていたが、同日午後四時ころに至りようやくその場を退散していつたことが認められる。右によれば、右被告人ら組合員が前記のごとく多数組合員とともに十河社長に威圧を加えてその車検とキイの返還要求を拒否した際に引き続き、被告人柏木が前記車検とキイ三組を持ち去る際、同被告人ならびに被告人真井、同鶴見、同三浦その他付近にいた組合員は、順次互に意思相通じたうえ、これを阻止しようとした同社長に対し実力をもつてこれを遮えぎり、結局右車検とキイを被告人ら組合側の手中に確保するにいたつたといわねばならない。もつとも被告人柏木は、右車検とキイの奪取当時の状況について「自分は誰かの声で『車検はここにあるよ』ということを聞いたので、それをたしかめに保管箱のところに行き、それからながながと喋つた。すなわち十河社長に対し佐藤課長との約束の問題を話した。社長は面子の上からこの車検とキイを渡すと言えないのじやないか。そういうことなら過去にも何回もあるんですからあんた見て見ないふりをして貰いたい。これは約束であんたの関係ないことだから佐藤営業課長の責任だというようなことを説得したわけです。そんなことを一〇分内外喋つていた。それから三、四回念をおして、貰つてもいいですね、といつて得心のいくように話したが、社長はにやにや笑つていた。自分は『社長はらでいきましよう、政治的にやりましよう。』といつて車検を取つた。それを右手にあげて社長に示し、それから社長の前を通つてゆつくり廊下を出た」旨(一六冊、一四一ないし一五九丁)弁解している。この点弁護側が右弁解の裏付けとして援用する証人大川義郎は「柏木が社長となんか話したようであるが、車検を取ると社長が急に立つた。それと同時に真井も急に立つた」旨(一二冊一七ないし二〇丁)供述していて、被告人柏木が弁解しているように長時間にわたつて十河社長と右車検とキイについて話し合つた後、その了解のもとにゆつくり持つて行つた趣旨には述べておらず、むしろその供述自体から明らかなごとく、被告人柏木が右車検、キイを奪取するや否や、これに気づいた十河社長の敏速な行動さらにこれに向き合つていた被告人真井の瞬間的な行動についての証言からすると被告人柏木の前記弁解を否定する趣旨であり、他方証人秋山源二は「柏木は社長に対しカウンターの上の保管箱に車検があるからこれを貰つていくという話をしていた。佐藤さんにメーターを取りつけに行くということで貸した車検だから返えしてください、というのでそのやりとりを五、六分やつていた。柏木は車検を右手にもつて『社長これをもつて行きますよ』ということでした」という趣旨(一三冊、二八三ないし二八七丁)の供述をし、また証人森脇三郎も、この点「柏木は社長に『車検がここにあるんだつたら、じや返えしてください』といつたが、社長は返事をしない。柏木は保管箱の中から車検を取り『私が責任を持つて貸したんだから返えしてもらいますよ』と二、三度振りながら来た。社長はにやにや笑つていた。柏木はもう一度くらい『それじや、いいんですね、もらつていきますよ』と念を押した」旨(一一冊、六三ないし六六丁)供述している。しかしながら右両証人は、当時被告人柏木が十河社長の了解のもとに本件車検とキイを持ち去つたという点では一致しているようであるけれども、その前後の状況については、かなり重要な喰い違いを見せており(この点、弁護人自身も右両証言に記憶の混乱のあることを認めている。しかしともに誠実に証言しているから不正確な点が見受けられたとしても、その証明力は左右されないとしている。)(弁論第二章第三、三参照)被告人の前示弁解にも必ずしも符合しておらない。以上の諸点と本件車検とキイの奪取状況に関する前示検察側証人の証言とを対比して考察すると、被告人柏木その他の関係者らの供述をもつてしても、未だ前記心証を動かすに足らない。

4  威力業務妨害罪の成否について

イ  車検とキイの返還拒絶について

本件について、検察官は「被告人らは争議行為の本質を逸脱した違法な行為である車検およびキイの管理抑留を共謀し、十河社長から組合側において管理抑留中の車検およびキイについて即時返還の要求がなされた際、多数の威力をもつてこれ拒絶したものであつて、会社の業務妨害を内容とする共謀を威力という実行行為によつて実現したものであつて、」被告人らの車検およびキイの返還拒否の行為は威力業務妨害罪を構成するものであると主張する(論告二九頁)。

おもうに、いかにも威力業務妨害罪は威力という実行行為によつて人の業務を妨害することによつて成立する。すなわち威力を手段として新たに業務妨害の危険を生ぜしめるか、もしくは既存の妨害の除去を阻止することを要すべく、いずれにしても、その威力なかりせば妨害の危険または結果は生じなかつたであろうとか、あるいは既存の妨害を除去し得たであろうという意味において威力と業務妨害の危険または、結果との間には現実的な因果関係が存在し、手段結果の関係が認められなければならない(荘子邦雄労働刑法一〇二ないし一〇三頁参照)。もしこのような関係が認められない場合には、当該威力の行使がそれ自体として別罪を構成することはあつても威力業務妨害罪としての定型性を欠くことになるから同罪の成立を認めることはできない。

ところでこれを本件についてみると、まず本件車検とキイを組合側で抑留、保管することが会社の自動車運行の業務を阻害することになるとしても、右車検とキイの組合側による抑留、保管は、前認定のように、昭和三九年一月三一日未明から(検察官の主張によればその前日の一月三〇日午前二時ころから)行なわれて同日午前一〇時ころには完了していたのであるから、それによつて当時すでに会社の自動車運行の業務は、完全に阻止されていたことになる。したがつてその後における被告人らの右車検とキイの返還拒絶の行為によつて(それが威力の行使であると否とを問わず)新に別個の業務妨害の結果が生じたものでないことはいうまでもない。しかも、当初右被告人ら組合員が本件車検とキイを抑留、保管するに当り、別段威力を行使したことを認めるに足る証拠もないから、これにより会社の業務が妨害されたとしても、もとより威力業務妨害罪の成立を認める余地はない。(現に右車検とキイに対する抑留、保管の開始をもつて本件威力業務妨害罪の実行の着手といえないことは、検察官自身もこれを認めているし、また、この点について検察官が別に予備的訴因として偽計による業務妨害罪の成立を主張していないことも明らかである。)

つぎに、被告人らの判示のような言動(威力)によつて十河社長の車検とキイの返還要求を無視してこれに応じなかつたことが既存の業務妨害の状態を除去することを阻止したものといえるかどうかを考えてみる。この場合に、当時十河社長が実際組合側から本件車検とキイの回収を計るについてどのような意図を蔵していたのかが必ずしも明らかでないようにも思われる。たしかに詮じつめれば、車検とキイを返せ、返さぬの押問答ともいえるであろう。しかし、この場合車検等の返還のことは十河社長の方から言い出したというよりもむしろ、組合側でストライキを中止し平常どおりの勤務に就くから運転日報を渡してくれと言つてきたのに対し、「就労するならいつたん車検とキイを返してからにしてもらいたい」という形でもち出されているのである。したがつて双方の悶着の焦点が、「車検などを返せ、返さぬ」ということにあるのか、それとも「運転日報を出せ、出さぬ」ということにあるのかはつきりしないふしもある。関係証拠によると、従来都民交通でストライキが行われた場合は、車検やキイを組合側が保管していたようなときでも、ストライキの解除とともに従業員はそのまま直ちに就業していたようである。本件の場合には対自運労の問題すなわちプロパン車をめぐる人員確保の問題がからむので事態は複雑化するが、それでも、会社側が運転日報を出してやれば、会社の車両運行の業務は一応まがりなりにも、運営できた筈である。しかし、十河社長はそれをしなかつた。のみならず交渉の過程において組合側に対し、「二四時間のストライキの通告も最初に出ているのだから、車検とキイを返さないならそのままでもいいじやないが」というような趣旨のことも口にしているのである。この言葉は、とりようによつては、車検とキイを返すのがいやならそのままでもよい、その代り日報を渡すわけにはいかないからという趣旨にとれないこともないようである。しかしながら、全体としてのやりとりの経過をみれば、やはり、被告人ら組合員が十河社長の車検とキイの返還要求を拒絶したという線はやはり動かないものと思われる。

ところで、検察官は、「被告人らが多数の組合員の威力(言語および態度)により十河社長の返還要求を抑圧するに足る強制を加え、」「十河社長も右「威力」によつて返還要求の意思の発動を抑圧され、個々に被告人らを説得する等の方法によりその飜意を求めて車検およびキイを返還させる等の手段を全くとる余地がなかつたものである」から、被告人らの右行為は威力業務妨害罪を構成すると主張する(論告二七頁、三〇頁)。なるほど、被告人ら多数組合員の言動がいわゆる「威力」に該当するものであり、十河社長の返還要求の意思の発動がこれによつて抑圧されたことは、証拠上、これを認めなければならない。しかしながら、いうまでもなく威力業務妨害罪は、人の社会的経済的活動の自由を保護することを目的とするものであつて、単に人の意思の発動の自由そのものを端的に保護しようとするものではない。本件の場合に、もし被告人らが「威力」を用いず平穏裡に車検等の返還を拒絶し、したがつて十河社長の返還要求の意思の発動も抑圧されなかつたとすれば、果して検察官の指摘するように、同社長が被告人らを説得により飜意させ、車検等の返還を受けることによつて操業の可能性の回復を実現することを期待しうる余地があつたであろうか。関係証拠およびそれらによつて認定された判示の経緯に徴すれば、当時到底そのことの望みえなかつたことは明らかであるといわなければならない。会社側と組合側との間で当時車検等の返還についての交渉が進められていたというわけでもない。その交渉はそれ以前の段階ですでに決裂していたのである。また、会社側が車検等の所在を発見してそれを取り戻そうとするのを被告人ら組合員が威力をもつて阻止したというわけでも、もち論ない。十河社長は、終始組合側保有の車検等の所在を知らなかつたのである。したがつて、本件において会社側の操業の可能性の回復が失われたとしても、それはあくまでも、被告人ら組合側が十河社長の要請を拒否して車検等を返還しなかつたことによるのであつて、「威力」によつてその返還を拒否したことによるのではない。現に、また、そのいわゆる「威力」は、車検等の返還拒否のためというよりも、むしろ会社側から運転日報を出させるために用いられたというべき状況であつたのである。

以上の理由により、結局別紙一覧表1ないし33記載の車検とキイについて十河社長の返還要求を拒絶した被告人らの行為は、これを威力業務妨害罪の構成要件に該当するものと考えることはできないし、また被告人らの用いた「威力」がそれ自体として、暴行罪、脅迫罪を構成する程度のものでないことも証拠上明らかである。

ロ  車検とキイの奪取について

つぎに、前段3・ハにおいて認定したところによれば、被告人らが、共謀のうえ別紙一覧表34ないし36記載の車検とキイを威力を用いて奪取したことは明らかであり、そして、これらの車検とキイを奪われることによつて、会社側としては、当該自動車を運行の用に供することができなくなつたわけであるから、その点だけをみると、被告人らの右行為は刑法二三四条所定の構成要件を充足するようにも考えられる。

ところが、さらによく考えてみると、前に認定したように、本件会社の業務は被告人ら組合側の争議行為により昭和三九年一月三一日早朝から全面的に停止状態に陥り、そのうえ、その後ストライキ解除の際における車検とキイの返還問題をめぐつて会社側と組合側との間に紛争状態が続いていたため会社側としてはその保有車両数三七台のうち、当時すでにその大半に及ぶ三三台の車両についてその運行を停止させるに至つた。ことここに及んではタクシー会社としての本件会社の業務は、全体としての機能を喪失したものといわなければならない。なるほど当時なお会社側にプロパン車一台(品五あ六一―六五号車)と本件三台のガソリン車の車検とキイが保有されていたことはまちがいない。もし他の車両が平常どおり就役しているならば、これだけの台数の車両といえども会社の業務運営上現実的に有意義であることはいうまでもない。しかしながら右のとおり、会社保有車両の大半がその運行を停止している本件の場合に、あえてこれだけの車両を出庫させてみても会社全体の業務運営上の建前からみればほとんど無意味に近いものと思われるし、現に証拠上も、当時会社側がこれだけの保有車両を出庫させてでも営業を続行しようとする意図があつたとは認められず、また当時このようなことが客観的に可能である状況であつたともみられないのである、もとより四台の車両といえども会社にとつては貴重な営業財産であつて、これを軽視することは許されない。ただ本件の場合には、前示のとおり、他の保有車両全部の運行が阻害されているため、ひいて会社側がその車検やキイを保有している右四台の車両についてもその運行が事実上不可能な状態になつていたものと考えざるをえないのである。すなわち自動車を営業のため運行の用に供するという意味における会社の業務は、右四台の分をも含めて、すでに全面的に阻害されていたものといわなければならない。そうだとすれば、被告人らが右四台のうちのさらに三台のガソリン車の車検とキイを奪取したことによつて、新に会社の業務を妨害したとはいえないであろうし、また、証拠によつて認められる当時の状況からすれば、これによつて既存の業務遂行上の障害を格別増強したとも解することはできない。もつとも検察官は、ここに業務というのは本来の「運輸大臣の免許に基く一般乗用旅客自動車運送事業」のみでなく、広くその準備行為である例えば洗車、修理、整備等もその業務であると主張する(論告三〇頁)。この意見は、当裁判所の見解と全く同一である(当裁判所が、被告人三浦を除くその余の被告人らの車両の移動ならびに車輪取り外し行為を威力業務妨害罪としても有罪と認定したのは、この見解を取り入れたものである。)。しかしながらこの種のいわゆる準備行為に属する業務について会社側においてスペアキイを保有していることが証拠上明らかであつて、これを使用することによつて何らの支障なく、これらの業務を遂行することができるわけであるから、この点からしても被告人らの行為によつて会社の業務が妨害されたものということはできない。

以上の理由により別紙一覧表34ないし36記載の車検とキイを奪取した被告人らの行為も、また、威力業務妨害罪の構成要件に該当するものとは考えられず、なお、関係各証拠を吟味すると、その際、被告人らの用いた「威力」は、それ自体として、暴行罪の構成要件を充足する程度にも至つていないものといわなければならない。

三  アリバイの主張と被告人らの行動について

前記一掲記の公訴事実に対する当裁判所の判断は、右二において示したとおりであるが、なおアリバイの主張と被告人らの行動について以下補足して説明を加える。

イ  被告人三浦について

弁護人は、被告人三浦は、昭和三九年一月三一日の本件当時犯行現場にいなかつたものである。すなわち同被告人は、前日の一月三〇日午後一〇時ころ帰宅し、翌三一日歯槽膿漏による歯痛のため昼すぎまで自宅で休み、午後三時半ころ近くの米本歯科医院へ治療に出かけ、同医院で治療を受けた後午後四時すぎころ帰宅したのであつて本件には全く無関係であると主張し、同被告人もこれと同趣旨の弁解をしている。

そこで以下同被告人の行動を証拠に基いて認定しながら、右アリバイの主張に対する判断を示すこととする。

(1) 歯痛と受診の事実

被告人三浦のアリバイの基礎となつている歯痛とその受診の事実について、まず検討してみるに、証人三浦瑩子(一六冊、二丁以下)、同秋山源二(一三冊、五四四丁)、同米本治男(一二冊、二丁以下)、同沼田英雄(一二冊、一九丁以下)の各証言、被告人三浦の当公判廷における供述(一五冊、四丁以下)ならびに昭和三九年一月三一日付被告人三浦秀夫に対する診療録、クランケ名簿一冊(以上記録一四冊編綴)の各記載によると、事件当日の一月三一日被告人三浦は二、三日来病んでいた歯槽膿漏のため自宅の近くにある東京都渋谷区本町二丁目七番地米本歯科医院で治療を受けた事実が明らかである。

(2) 来院時刻

この点につき、同被告人は、当公判廷において当日自宅(同都渋谷区本町二丁目一二番地)を大体午後三時半ちよつと前に出て、歩いて一分半か二分ぐらいの米本医院に行つたと供述しており(一五冊、一六ないし一八丁)、証人三浦瑩子(被告人三浦の妻)も右趣旨に副う供述をしているので、本項では一応これら時刻に関する右各供述部分以外の関係各証拠を総合判断して客観的に確定し得る限度において同被告人の来院と受診の時刻を検討する。

(a) 患者の受診順序

まず、被告人三浦を中心とする患者の受診順序を考えてみよう。証人米本治男(一二冊、六丁以下)、同沼田英雄(一二冊、三丁以下)の各証言によると、米本医院では患者が来るとカルテのほかに医院の営業成績を記録するために「クランケ名簿」と称するノートに所要の記載をすることになつていて、これには、月日のほかに患者の来院順序に従つて番号をつけて患者の名字を記入し、なお初診者については名字のわきに新患であることを示すために〈新〉という表示を書き加えることにしており、そして少くとも初診者については保険証の記載をもとにして書き入れる関係上、この場合には「クランケ名簿」に受診患者の名字を書き落すことの絶対にないような仕組みになつている事実が認められる。ところで右クランケ名簿によると、昭和三九年一月三一日であることを示す「31日(金)」とある欄には合計二〇名の来院患者の名前が書かれており、そのうち、七番目に田村と記載されているほか、以下、順次八番目に佐藤、九番目に大川、一〇番目に三浦〈新〉、一一番目に田村とそれぞれ記載されている。そこでこの記載と証人米本治男(一二冊、一七丁以下および六一丁)、同沼田英雄(一二冊、一九丁以下)、同田村秀子(一四冊、六ないし八丁)、同田村千代子(一二冊、三ないし八丁、四三丁)の各証言ならびに被告人三浦の当公判廷における供述(一五冊、三〇丁)を総合すると、前述のクランケ名簿の七番目に田村とあるのは田村雅裕のこと、八番目に佐藤とあるのは佐藤佳澄実のこと、九番目に大川とあるのは大川忠男のこと、一〇番目に三浦とあるのは被告人三浦のことであり、そして一一番目に田村とあるのは田村真美のことであるという事実がわかる。したがつて、一月三一日に被告人三浦を中心にしてその前後に来院した患者は、結局田村雅裕、佐藤佳澄実、大川忠男、被告人三浦、田村真美の順序であるということになる。

(b) 先順位者の来院状況

つぎに、被告人三浦の来院時刻を判断するにあたり、まず同被告人より先きに受診した各患者の来院状況について考えてみると、証人佐藤富子(一四冊、九ないし一七丁、二八丁)、同大川忠男(一四冊、五ないし九丁、二二丁)の各証言に、証人米本治男の証言と、なお、昭和三九年一月二九日付大川忠男に対する診療録、同月三一日付佐藤佳澄美に対する診療録(以上記録一四冊編綴)の各記載から推認される右一月三一日当日における佐藤佳澄実および大川忠男の両名の治療に要した時間をあわせて考察すると右佐藤佳澄実は当日の午後二時三〇分を少しすぎたころに来て約一〇分間くらい治療を受け、ついですでに来院していた大川忠男がその後同日の午後三時一五分近くまで約三〇分間くらいの治療を受けていた事実が明らかである。したがつて、前に説明した順序で来院した被告人三浦としては、少くとも右大川忠男が治療を受け終つた午後三時一五分以後に来院したものといわねばならない。

(c) 後順位者の来院状況とくに帰宅時刻

ついで、被告人三浦の後順位の来院者とみられる田村真美の来院状況とその帰宅の時刻を検討することとする。ところで田村真美の母親である証人田村千代子に対する証人尋問調書によると、同人が事件当日と認められる日に娘の真美を連れて「午後四時半か五時ころ」米本医院に行つたと証言している(一二冊、八ないし九丁)。しかしながら右の「四時半か五時ころ」という時刻は、それ自体三〇分間という幅のある表現であつて、必ずしも正確でないのみならず、他方同証人のいう右時刻については、弁護人も指摘するごとく、家を出た時間なのか、あるいは治療を終つて家に帰りついた時間なのか、かなり曖昧なようでもある。すなわち同証人は弁護人の主尋問では一応概括的に「四時半か五時ころ」と言つてむしろ家を出た時間と理解される証言をし、その後検察官の反対尋問では、これを「家に帰つた時間です」(一二冊、三八丁)とはつきり特定し、その点裁判所側からさらに念を押されて「医者から帰つたのが五時半ころで家を出るときが四時半ころです」(一二冊、四〇ないし四一、四三丁)と訂正した経過が認められる。しかし右の時刻についての証言は、同証人も述べるごとく時計を確認しての供述ではないから、あまりこれに捉われすぎてもいけないが、反対に、また、これをたやすく無視することも許されないものといわねばならない。ところで同証人の証言を注意深く吟味した場合に、まず、雨は行くときには大したことはなかつたが、帰りには土砂降りではないが行くときよりは強かつたということ、つまり帰りはこうもりが一本だつたので濡れないように子供をかかえて連れて来たことを憶えているし、医者を出るとき、大分降つているなと思つたということ(一二冊、一〇ないし一一丁)。米本医院は田村方から五〇メートル位の距離で、二、三分位で行けること(一二冊、一四丁ないし一五丁)、また医者に行つてからは、子供が痛いのでお医者のところをうろちよろ、うろちよろしていたのと先に治療を受けている人がいたことは間違いないということ(一二冊、二四丁)。真美の治療時間は、いつもたいがい長くても五分か六分ぐらいであること(一二冊、一一丁)。自宅を出るときは、まだそんなに暗くなく、うす明るかつたと思うが、帰りには自動車がヘツドライトをつけていたこと(一二冊、四四丁ないし四五丁)さらに家に帰つた時刻について、帰りの時間がとにかくお店が混んでいて、それから間もなく食事だつた(夕食はおそくて六時半ごろだが通常は大体六時ごろであるという)ことを覚えているということ(一二冊、三八、四六、五〇丁)等については、一貫してその記憶のままを証言している跡が窺われる。そこで主としてこれらの点を基礎にしてさらに検討を重ねることにしたい。

(一) 天候、ことに降雨状況との関係

証人兼鑑定人(以下単に証人という)太田芳夫の証言(一五冊)と東京管区気象台作成の証明書(記録一四冊編綴)によると、東京都千代田区竹平町二番地所在の東京管区気象台における昭和三九年一月三一日の観測天気概況は、六時から一八時までが「雨強し」であり、降水量が三一ミリとされ、さらに当日における時間別の降水量は、一三時が〇・四ミリ、一四時が〇・四ミリ、一五時が一ミリ、一六時が一・二ミリ、一七時が一・二ミリ、一八時が一・一ミリとなつており、さらに弱雨(一時間の降水量が〇・〇ミリから三ミリのもの)と並雨(一時間の降水量が三・一ミリから一五ミリのもの)という降水量の強弱から測定した当日の時刻別の状況については一五時四〇分から一六時五分まで並雨であり、その後一七時一六分まで弱雨に戻り、ついで一七時一六分から一七時二五分まで再度並雨の状態となり、それから一八時一五分まで弱雨ということになつている。また同証人によると、東京管区気象台(竹平町)と吉祥寺(成蹊高校)における当時の各自記雨量計自記紙を両者重ねて判定した結果や、その他の状況を考慮に入れても本件の焦点である渋谷区における降水状況は東京管区のそれと大差はないということであつて、その間の距離を大体一〇キロ、雨脚を一時間六〇キロと想定しても、そこに前後約一〇分間という時間上の差を生ずるにすぎないということが認められる(一五冊、三五ないし三九丁)。したがつて、今かりに最大一〇分間の差のあることを前提にして考えてみると、(風向のいかんによつては、その差の生じないことは同証人の証言するところである。)渋谷区では、弱雨が一五時五五分(または反対に一六時一五分)から一七時六分(または反対に一七時二六分)まであり、並雨が一七時六分(または反対に一七時二六分)から一七時一五分(または反対に一七時三五分)までだということになる。これによると田村千代子が来院したときの雨の状況は前示証言から判断して弱雨であり、それに反し帰宅のため米本医院を出るときのそれは並雨だと考えるのが合理的であると思われるが、右の降雨状況と照合しながら前記田村証言の意味するところを考えてみると、同人が真美とともに帰宅のため米本医院を出た時刻は、最大限早く見積つても渋谷区でそのころ最初に並雨にもどつた前記一七時六分より早い時刻ではなかつたということになろう。(ちなみに、この点東京管区気象台の観測による一五時四〇分から一六時五分までの並雨の時間を基準にして田村千代子の帰宅時刻を推論すると、これに一〇分の差を見込むとしても当日米本医院に往復した際の戸外の明暗度や帰宅後、夕食時までの時間的間隔等に関する前記田村証言と全く相容れないことになるので、この基準に従うことはできない。)。

一方、一月三一日の日没が東京では暦上午後五時六分であつたから、これに当日は雨天であつたという事情をあわせて考えると、その日戸外が完全に暗くなつたのは、大体午後五時一五分ないし二〇分ころであつたと推定されることは、前記証人太田芳夫の証言(一五冊、四〇ないし四四丁)からこれを窺うことができるのである。ところが前記田村証言によると、前記のように、「家を出るときはまだそんなに暗くなく、うす明るかつたと思うが、帰るときは自動車がヘツドライトをつけていたと思う」(一二冊、四四ないし四五丁)というのであるから、結局、この証言の意味するところを合理的に理解すると、右田村千代子らが米本医院を出た時刻は完全に暗くなつたであろうとされる午後五時一五分ないし二〇分ころよりは若干前の時点、つまり前に説明した一七時六分、すなわち午後五時六分ころより早くはなく、また午後五時一五分ないし二〇分ころより遅くはなかつたということになる。

(二) 夕食時刻との関係

前にふれたように証人田村千代子は「家に帰つて間もなく食事(夕食)だつたことを覚えている」旨を述べているので、この観点から娘の田村真美が治療を終つて家に帰つた時刻を検討するのも、あながち無意義なことではない。もとより同証人自身も述べているように、田村方の夕食時刻は、通常午後六時ころであるがおそいときは六時半ころになることもあり、それも店の関係で交替制で食べるというのであるから午後六時という時刻にあまりこだわりすぎることは慎しまなければならないであろう。しかしながら同証人の右供述は、前記(一)に記載した推論、すなわちその日田村千代子らが米本医院を出たのは最大限早く見積つても午後五時六分以後であつたという推論とも大体調和するのであつて、同人の帰宅時刻が「午後四時半前後」ころであるという弁護人の主張は右各関係証拠と調和しがたい矛盾を含むから採用することができない。

(三) 田村真美の先順位者(被告人三浦)との関係

田村真美の先順位患者が被告人三浦であつたことは、前に認定したとおりである。ところが、証人田村千代子は、米本医院で待つた時間については、ただ「子供がうろちよろしていた。」というだけで、はつきり記憶していない。(一二冊、二四および二五丁)。しかしながら、他方、同証人(一二冊、一一丁以下)ならびに同米本治男(一二冊、三八丁以下)の各証言によると、当日田村真美の治療に要した時間は、およそ五、六分ぐらいであつたと考えられる。そうだとすると、田村親子が帰宅のため米本医院を出た時刻を前記のような理由によつて、仮に午後五時六分ころとし、これを基準にして、それから右治療時間を差し引いた大体午後五時ころには、右田村真美が治療を受け始めていたと推断される。

(四) 田村真美以後の患者との関係

ところで、証人米本治男の証言によると、同医院の診療時間は平日は通常午前九時から午後七時までとされているが(一二冊、五三丁)、同証人の証言と前示クランケ名簿の記載からすると、一月三一日には右田村真美のあとにさらに九名の患者が治療を受けていることが窺えるのである。田村真美が治療を終つて午後五時六分ころ医院を出たとすると、閉院の午後七時までの間に果して九名の患者が治療を受け得るだけの時間的余裕があつたかどうか一応考えてみなければならない。しかし、当日は規定どおり午後七時に閉院したと仮定しても田村真美の治療後閉院までの間になお約一一〇分間の余裕がある。これは証人米本治男が述べる多いときで一日五〇人の患者の治療をする場合よりも一人当りの時間的割合が多い見当となるのみならず、同証人の証言によると一人の患者について三〇分位を要する場合もあるが、他方、わずか五分前後で終る患者もあることが窺われるのであるから、一一〇分の時間内に九名の患者の治療を行うことが不可能であるとする根拠はない。したがつて、この点も田村真美の治療時刻を前記のように認定することの妨げとなるものではない。

以上の考察からして、結局、被告人三浦の後に来院した田村真美は、最大限早く見ても当日の午後五時ころに治療を開始し、午後五時六分ころに治療を終えて帰途についたものと判断するのを相当とする。

(d) 被告人三浦の受診状況と来院時刻

つぎに、被告人三浦の来院時刻を推認するにあたつては、まず同被告人に対する当日の診療状況とくに治療に要した時間について考察を進めなければならない。

同被告人の治療状況について、証人米本治男は「症状は歯槽膿漏の急性発作であつてそれを洗滌治療してサルフア剤を投与した。上あごの右第一、第二小臼歯の歯ぐきが腫れていてオキシフルとマーキユロクロームで洗い、あとはレントゲン写真を二枚撮つた」(一二冊、二六ないし二七丁)と述べ、さらにその際治療に要した時間について「一応全部見まわして一、二分で洗滌をし、それからレントゲンを二枚撮つたが、撮影を用意するのに一五分ぐらいかかつているので、そのとき三浦を診察し始めてからレントゲン撮影の終るまで最低二〇分ぐらい、長くて三〇分ぐらいの時間を要した」旨(一二冊、三〇ないし三二丁)供述している。なお、同証人によると、治療後における症状の説明、料金の受領、次回来院期日の指定等で五分ぐらいの時間を要することが窺える(一二冊、三三ないし三四丁)から、これらの時間等をも考慮に入れると、被告人三浦について当日治療等に要した時間は合計約二五分から三五分の見当であつたこととなる。ところで前に説明したように、被告人三浦の次に来院した田村親子は先客を若干待ち合わせたというのであり(この点被告人三浦も争わない)、そして娘の田村真美の治療開始が午後五時ころより早くはなかつたと認むべきであるから、これから被告人三浦に要した治療時間を差し引いて同被告人の来院時間を逆算すると、最大限早い時間をとつても、これから三五分をさかのぼつた同日午後四時二五分ころということになり、しかもこの時刻は田村親子が米本医院を出たと思われる時点のうち、最も早い時刻を基礎にしたもので、実際には、前記のとおり、それよりも遅い、午後五時六分から五時一五分ないし二〇分ころの間であつた公算も十分考えられるのであるから、同被告人が米本医院に来院した時刻も、それに応じて約一〇分内外遅かつたこともありうるわけで、結局以上各種の客観的証拠を総合すると、同被告人は当日午後四時二五分ころから四時三五分ころまでの間に同病院に来院したものと認めるのが至当であると考える。

(3) 被告人三浦本人の来院時刻に関する供述について

ところで被告人三浦は、一月三一日「午後三時半ころ」自宅を出て前記米本医院に行つたと述べており妻の証人三浦瑩子もほぼこれに副う趣旨の証言をしている。いまかりに、同被告人が同日午後三時半ころ家を出たとすると、同被告人の供述(一五冊、一八丁)によつても明らかなとおり一分半か二分ぐらいで同医院に到着した筈であり、しかも同被告人は先順位の患者を待たないでそのまますぐ治療を受けたというのであるから、前に認定した治療時間を考慮しても、午後四時ころか、午後四時五、六分ころまでには治療を終つたことになる。そうだとすると、前記田村千代子らは、そのころすでに米本医院に来ていた筈であるから、当日は一五時四〇分から一六時五分まで並雨であり、その後一七時一六分まで弱雨に戻つたという前記東京管区気象台の観測と照合すると、渋谷区内についての約一〇分間の時差を計算に入れても、田村親子が降雨の弱いときに来院して降雨が強くなつた際帰宅したという可能性が考えられなくなるし、その他右田村親子の帰宅時刻等の点において、前記証人田村千代子の証言と矛盾する結果となり、他方同被告人が午後四時半すぎころ帰宅したという証人三浦瑩子自身の証言(一六冊、一〇丁)にも必ずしもそぐわないこととなる。

以上のとおり、被告人三浦が昭和三九年一月三一日の午後前記米本歯科医院に赴いて歯槽膿漏の治療をうけたことは、間違いない事実と認められるが、同被告人が午後三時半ころ自宅を出たという主張は、これを支えるに足る客観的証拠に乏しいものといわなければならない。

(4) 被告人三浦の当日の行動について

そこで、さらに進んで被告人三浦の当日の行動について検討してみよう。同被告人は、当日歯痛のため朝から自宅で休んでおり、午後も米本歯科医院に行くまで自宅に引きこもつていたと述べている(一五冊、一〇ないし一六丁)。しかしながら

(a) まず、被告人三浦は、都民交通労働組合の執行委員として、本件ストライキの成行について重大な関心を持つていたものと認められる。弁護人は、同被告人が執行委員の地位にありながら当日組合に顔を出さなかつたのはストライキが昼までで終ることが予めわかつていたから左程重要視していなかつたためであると主張する。しかし、前にも認定したように今回のストライキは、重点が人員確保すなわち自運労の問題にあつたのであり、被告人三浦自身も特に昭和三九年一月二七日午後三時ころ前記秋山とともに自運労東京支部に赴いて協力方を要請しており、他方一月三一日には午前中でストライキを中止するといつても、それは完全な争議行為の打切りを意味するものではなくて依然自運労所属の運転者には出庫させないとの方針を堅持していたものと認められるから(証人牧真人七冊主尋八丁参照)、この点従来行なわれていた単なる時限ストライキとは根本的に事態が異つていたわけであるから当時組合の重要な役職にあつて右事態を十分認識していたと思われる被告人三浦として一月三一日の事態を重要視していなかつたとはとうてい考えられない。現に同被告人はストライキの二、三日前から歯痛を病んでいたというのに前日の一月三〇日は午前二時で明番となつたにもかかわらず帰宅もしないで、そのまま夜遅くまで組合にいて午後一〇時ころになつて漸く帰宅しているうえに、なお前記秋山議事録(前同押号の一〇)によると、同被告人は一月三〇日の闘争委員会では全自交との共闘を主張して積極的な発言をしている状況が窺われるのであるから、同被告人において当時本件ストライキの成行きについて並なみならぬ関心を持つていたことは証拠上疑いないところであるといわなければならない。

なお、被告人三浦は一月三一日夕刻争議のことが気になつたので降雨中をわざわざ妻と一緒に渋谷へ映画を見に行く途中、会社の前を通るバスの中から構内の模様を眺めたというのであるが、このことは、とりもなおさず同被告人が本件ストライキ解除後の成行きについて重大な関心を寄せていたことを暗示するものともいえるであろうし、他面、また同時にそれほどの関心があつたのならば、当夜も歯の症状は昼間とあまり変らないというのであるからなぜ一日中全然組合にも行かず、また特段の連絡もしなかつたのか。なるほど証人三浦瑩子の証言(一六冊、四三丁)によると、当日は被告人三浦の公休日になつてはいるようであるが、その点をも考慮に入れても理解できかねることでもある。

(b) つぎに、前記(2)において認定した来院時刻に関する組合わせによると、被告人三浦が事件後組合から米本医院に行くことも時間的に不可能とは認められない。弁護人は、当日被告人三浦は、おそくも午後三時五五分ころには米本医院に到着していた筈であるから本件犯行後に同医院に赴くことは事実上全く不可能であると強く主張している。しかしながら、右指摘の時刻は同被告人の従来の供述に必ずしもそぐわないのみならず、前記(2)において検討した客観的証拠の所与とも合致しないものである。

当日の事件後組合側が最終的に会社の事務所から引きあげた時刻は、前記のごとく、午後四時一寸すぎころと認められるのである。ところで被告人三浦の当公判廷における供述によると、自宅から会社までは徒歩で一五分、バスで一〇分ぐらいである(一五冊、一〇ないし一一丁)というのであるから、それから推考すると、同被告人がかりに事件後会社を出てそのまま米本医院へ行つたとしても、午後四時二五分ないし午後四時三五分ころまでに同医院に到着することは不可能なことではないと思われる。

(c) 一方、本件当時における会社事務所内における被告人三浦の行動を証言する検察側証人の供述を仔細に点検しても特にその信ぴよう性を疑わせるふしは認められない。弁護側は、主として右証人らのうち証人十河京一、同佐藤浩次郎、同白洲富久子について、当時本件の事務所内でフラツシユガンも使わずに写真を写すことは不可能と思われるのに、被告人三浦が当日これを写していたと証言しているのは、明らかに作為された証言であると指摘する。しかしながら、本件当時の時刻ころ右事務所内で写真を写そうとする場合には、フラツシユガンを使用しなければ絶対に撮影できないかというと、必ずしもそうとばかりもいえないことは、一般の経験上明らかであるから同証人らが、いずれも当時被告人三浦がフラツシユガンを使用したことを確認していないからといつて、直ちにその証言が作為的な疑いのあるものとすることはできない。(ちなみに、昭和三九年一二月二五日曇)午後二時から三時四〇分までに行なわれた当裁判所の検証の際、立会つた被告人ら組合側のある者は検証の状況を撮影していたが、特にフラツシユガンを使用していなかつたことは、当裁判所の職務上知るところである。なお、当裁判所の検証調書添付写真8を参照)。また、それらの証人も被告人三浦が終始その室内で写真ばかり撮影していたといつているのではないのであるから、その余の検察側証人がとくに被告人三浦の写真撮影のことを現認しておらず又はその点をとくに供述していなくても、そこを捉えて検察側証人相互の供述の間に本質的に不合理な矛盾撞着があるというわけにもいかない。むしろ、これらの証人は、いずれも、多少各自表現の相違はあるにせよ、被告人三浦の行動については大筋において具体的に符合する供述をしていることがわかるのである。証人森脇三郎(一一冊、二七一丁)、同大川義郎(一二冊、九五ないし九六丁)、同秋山源二(一三冊、二九九丁、五四三ないし五五一丁)の各証言その他の反証をもつてしても、右心証を動かすに足りない。

(d) さらに、本件アリバイの主張がこれを支えるに足る客観的証拠に乏しいことは前記(3)「被告人三浦本人の来院時刻に関する供述について」と題する項において説明したとおりである。もつとも前示柏木ノート(前同押号の一一)によると、一月三一日の臨時組合大会における各出席組合役員ならびに組合員の名字中に、被告人三浦の名前が記載されていないことが認められる。ことに前日の一月三〇日にも、翌二月一日午後四時三〇分のところにも同被告人の名前がしるされているのに、一月三一日と翌二月一日の午前のところだけにはその記載がないのは、なぜか、この点検討が加えられなければならない。おもうに、被告人柏木の当公判廷における供述(一六冊、五七丁以下)から判断すると、右柏木ノートの記載中、少くともその出席者の氏名については、組合大会開会の当初その場に出席していた各組合役員又は組合員の顔ぶれを見てその場でとりあえずその名字だけをメモしておいたものとも考えられるが、その後の段階において途中から出席した者などについてまで、いちいちその都度正確に記載していたかどうかは必ずしも明らかでない。現にたとえば、当日のいわゆる仮日報(前同押号の一七)によりその日疑いもなく出社していたと認められる戸谷、名雪両組合員の名前は、柏木ノートに記載されていないのである。しこうして、一方前記のごとく一月三一日は被告人三浦の公休日であつたことが認められ、他方同被告人は、前述のように歯痛をこらえて前夜おそく帰宅した等の事情もあり、それに一月三一日のストライキは、その突入時よりも、むしろその解除時以後の事態の処理に重要性があることを承知していたと思われる関係上、平素よりも遅く組合に出向いてきたのではないかということも証拠判断上合理的に考えられないことはないのである。〔現に同被告人は二月一日の午前中は出社せず午後から会社に出ている。被告人三浦の供述(一五冊、六丁)参照〕そうだとすると、当日の臨時大会が午前八時から午後三時までひらかれたと記載されている右柏木ノートに被告人三浦の名前が記載されていないからといつて、そのことだけから同被告人が右一月三一日には終日出社しなかつたものと推論するのは、いささか早計に失することになろう。

以上の各事実を総合審按すると、被告人三浦の本件アリバイの主張およびこれに沿う弁護側の各証拠をできうる限り斟酌しても、なお、同被告人につき前示第七、二「当裁判所の判断」のうち、その3「一月三一日における会社事務所内における状況」の項に記載してある事実を認定するうえにおいて合理的な疑いを容れる余地があるものとは思われない。

ロ  被告人平林について

弁護人は、被告人平林は一月三一日午後二時半ころから午後六時か七時ころまでの間会社二階仮眠所で同僚の鈴木進と将棋をさしており、その間便所に一、二回立つた以外はその場所を離れなかつたから本件事件当時、会社事務所はもとより二階廊下付近に行つたこともない旨主張し、同被告人も同様の弁解をしているから、以下この点について検討を加える。

(1) 弁護側証人の証言等について

ところで右主張を裏づける証拠として弁護人は、とくに証人鈴木進の証言を援用している。同証人は、おおむね被告人平林と同趣旨の供述をし、とくに「当日午後から平林と将棋を一〇回以上一五、六回やつた。そしてそれをやつているとき柏木が車検をもつて来て、平林にこれを預つているとか言つていた。詳しいことはわからないが、三通か四通あつた車検を平林に渡した。」「平林との将棋が終つたときは薄暗かつたと記憶する」旨(一五冊、八ないし一五丁、二一ないし二三丁、六四丁)供述している。これに加えて、被告人柏木も「自分は当日平林が大きい仮眠所で将棋しているのを三回みている。」「つまり一回目は自分が社長に呼ばれたとき、二回目が車検とキイを持つて来たときで、このときは平林の相手は鈴木進で、持つて来た車検とキイと平林に渡した。三回目はその夜です。」(一六冊、一六八ないし一七九丁)と供述している。一方証人秋山源二(一三冊、二九九ないし三〇二丁、五三一ないし五三四丁)、同森脇三郎(一一冊、一七九ないし一八〇丁)らは、ともに被告人柏木が本件の車検とキイを奪取したころには事務所で被告人平林の姿を見ていない旨それぞれ証言している。

しかしながら右鈴木証人および被告人柏木が一致して述べている「車検とキイを平林に渡した」という点に関連して、当の被告人平林は、「柏木が佐藤課長のところに抗議に行くといつて出たと思う。みんな出番の者がぞろぞろついて行つたと思う。それから帰つて来たのは自分にはわからない」(一六冊、七九ないし八一丁)と供述しており、これは、被告人柏木から本件三組の車検とキイを直接受け取つたかどうかも全くわからないという趣旨に帰着する。被告人平林は、一月三一日の午前中自己が右車検とキイを営業課長佐藤浩次郎に渡したということ自体もこれを否定しているのであるから、その点はしばらくこれを措くとしても、ともかく、その後、もし被告人柏木から仮眠所で車検とキイを手渡されたことがあるとすれば、いかに将棋に熱中していたとしても、そのことを知らない筈はないのみならず、そもそも被告人柏木が出番の者といつしよに佐藤課長のところに抗議に行つたというのに、その後その者たちがいつ帰つて来たかも全然わからないというようなことは、とうてい考えられない。

しかも、一方、すでに認定したごとく、また、前記秋山議事録(前同押号の一一)の記載からも明らかなとおり、被告人平林は今回の争議には多数の組合員の支持を得て闘争委員の役職についたものであり、ことに前日の一月三〇日に開かれた全体闘争委員会でも深夜まで討議を重ね「東旅協を相手にする考えで闘え」「とことんまでやる」などという積極的な意見を吐露している事実が窺われるのであつて、この一事を見ても同被告人は今回の争議に対して深甚な熱意と関心を示していたことが推察されるのである。それにもかかわらず、翌一月三一日には、たとえ形の上ではストライキが解除になつたとはいえ、なお会社側とは従来にもまさる紛争状態になつているのに、闘争委員である同被告人が、たとえ当日は自己の出番でなかつたとしてもあたかもひとごとのように仮眠所の一隅で長時間にわたつて将棋をさしているというようなことは、常識上容易に首肯し難いところである。

(2) 杉崎写真について

なお、検察官は被告人平林の弁解ならびに右鈴木証言に対する反証として都民交通総務課長杉崎正雄が撮影したものと認められる写真九葉(記録六冊編綴)について言及しているのでこの点について一応検討をする。

ところで右写真撮影者である証人杉崎正雄の証言(四冊)と右写真の撮影場面とを総合して考えると、まず第一に、第一車庫の出入口付近でななめになつて他の車の出入を塞いでいると思われるプロパン車(写真1)が組合員の手で他の車と並行するような位置方向に移動され、さらに、他のプロパン車を手で前面に押し出し、それによつて奥の車の出入口を作つているものと認められる(写真9)ので、これらの車の移動作業は、右車庫内に格納中の自動車の出庫を妨害するためのものではないと判断されること。第二に、車の移動作業をしている者は全写真を通じ、被告人真井、同鶴見、同平林のほか森脇、辺見らの組合役員を含む九名で、そのうち当日の出番者は右森脇三郎一名にすぎないことから考えると(前同押号の一七の仮日報一五通参照)、右作業員らはいずれも当日の出番者に代つて出庫の準備をしているものと考えられ、その間当日の出番者らはその近辺に姿をみせていないこと。第三に、撮影者である右杉崎自身が、当日午後二時ごろ組合側がストライキの解除通告をしてきてから間もなく午後三時すぎころにこれらの写真を撮影したもので、ストライキの通告を解除してから二回ぐらい組合役員らが団交のために事務所に来ている、組合員が出庫したのはそれからだいぶあとになると証言していること(四冊、一〇丁、一五三丁、一五四丁、六七丁参照)、一方ペトリセブンのカメラで一二五分の一秒のシヤツタースピードで写したにしては、写真の全画面が比較的鮮明で雨中にもかかわらず、明るく見えることなどから考えると当時の日没時刻(証人太田芳夫によると午後五時六分)等を考慮に入れても、右写真の撮影時刻が午後四時以降であるということは考えられないこと。第四に、逆に、もし、右写真が弁護人主張のごとく午後二時ころに撮影されたとか、あるいは証人森脇三郎の証言のごとく(一一冊、二五二丁)、午後一時半か二時ころに写されたものだということになると、それはストライキ解除通告の前後ころになるから、それならば、なぜ、前述のとおり、三役以下一二名の組合役員のうち、五名までがその移動作業に出ていながら、当日出番に当つている一般組合員らがほとんど全くそれに加わつていないのかということが、必ずしも理解できないこと等以上の諸点を総合して考えると、右写真は、組合側が当日、日報なしにでも出庫を強行する肚を決めて、その具体的方策を討議し、一応の目鼻がついた段階、すなわち組合三役が社長室に呼び入れられるより前の時点(前記二「当裁判所の判断」の項の3、ロ認定の車検とキイの返還拒絶の状況参照)において被告人真井、同鶴見、同平林ら組合幹部と当日の出番者でない二、三名の組合員が、出番者のために出庫の手筈を整えている場面を撮影したものと推考されるのである。したがつて、右写真撮影の時点をはつきりと確定することは困難であるとしても、それは証人十河京一の述べるごとく、いわゆる事件後のこととは認められず、杉崎証人のいう午後三時すぎころと推定するのが相当であると思われる。

ところで、被告人平林の弁解は「昼の食事後、午後二時半から将棋を始め、夕方六時か七時ころまで続け、その間席を立つたのは便所にいく程度で他に用事がないので坐りきりで夢中になつてやつていた」(一五冊、一七ないし二四丁)、というのであり、証人鈴木進も大体これに符合した供述をしているが、右杉崎写真と照しあわせて考えても、やはり右弁解は、これを採用するのに躊躇せざるを得ないのである。

(3) 以上要するに、被告人平林がその日仮眠室で将棋をさしたことがあるかどうかは、別としても、同被告人の右アリバイの主張は採択することができず、同被告人は、右写真に示すごとく階下第一車庫における車の移動作業終了後、前に認定したように、会社二階事務所の入口付近に立ち到つて来たものと考えられる。

ハ  被告人鶴見について

つぎに弁護人は、被告人鶴見は、被告人柏木が本件の車検とキイを手にして二階事務所を出た当時そこにいなかつたものであると主張し、その点に関する被告人鶴見の供述を要約すると「自分は柏木が呼びに来て皆が事務所の方へ出て行くとき組合事務所の中で、会社で不用になつた日報をさがして時間をつぶしてしまつたが、結局なかつたので、わら半紙に名前や車両ナンバー等をかいて出すよりほかないということでそれを作つたりしていたから事件の現場にいなかつた。」ということになる(一六冊、二一ないし二三丁、三〇ないし三六丁)。証人森脇三郎は、「鶴見が日報を作ることにきまつていて、自分たちが皆で事務所へ押しかけて行くとき、組合事務所の中でその作業にとりかかつていた」旨(一一冊、七六ないし七七丁、一八一ないし一八二丁)証言し、証人大川義郎も「皆と一緒に仮眠所から廊下に出て来たとき鶴見が組合事務所の中にいたのを見た」(一二冊、一〇丁)と供述している〔ただし、同証人は、一同が会社事務所から引き上げてかえるとき被告人鶴見が組合事務所にいたかどうかは記憶していないとも述べている。(一二冊、九七ないし九八丁)〕。これらの証言の趣旨は、いうまでもなく、被告人柏木が社長室から一人で仮眠所に戻つて来た後、再度会社側に日報の引渡方を要求しに行こうということで出番の組合員ら一同とともに会社事務所へ押しかけて行くときのことをさしているのである。ところが、被告人鶴見の供述(一七冊)により同被告人が作成したものと認められる、いわゆる仮日報一五通(前同押号の一七)を検討してみると、それらは単にわら半紙を半分に切つたり、あるいは折りまげた程度のもので、しかも、同被告人自身が記入したと認められる個所も極めて少くこれ自体を作成するのに格別の時間を要するとも思われないし、それに、また、組合事務所は、被告人鶴見の供述によつても明らかなとおり、わずか一坪ぐらいの極めて狭い部屋であつて、そこで古日報を探していたとしても、それほど時間のかかることでもないと考えられる。それらの事情と証人岩田年敬の「自分はその日日報なしで組合員が出庫したのを見た。早目に出た人もいたし、ぐずぐずして遅くなつた人もいるが、誰か組合の幹部の人が、指数だけは日報がないんだからわら半紙に書いておけ、それで出て行こうじやないかといつたのを覚えている」旨の供述(七冊、二四一ないし二四二丁)を総合して考えると、被告人鶴見は、右のように当日出番の組合員ら一同が会社事務所へ押しかけていくころ多少の間右組合事務所へ入つていたことはあつたとしても、(これは、もちろん前記杉崎写真の状況後のこと)その後引続きそこにいたとは考えられず、むしろ同被告人のいわゆる日報は、事件後出番の組合員が出庫する直前ころに手早くこれを作つて出番の組合員らに渡したにすぎないものと判断されるのである。したがつて被告人鶴見の右アリバイの主張も結局、これを採択するわけにいかない。

四  むすび

以上これを要するに、右各公訴事実は、結局罪とならないことに帰着するところ、右は被告人柏木、同真井、同鶴見、同平林については、判示二月一日の犯罪事実と包括一罪の関係に立つものと推認せられるので、特に主文において無罪の言渡をしないこととするが、被告人三浦については刑訴法三三六条に従い主文末項のとおり無罪の言渡をすることとする。

第八量刑の事情

本件事犯にいたるまでの経緯のあらましについては、すでに判示認定のとおりである。ところで最近における経済の発展とこれに伴う社会問題とりわけ交通、労働、物価等の諸問題は複雑にして深刻な様相を示していることは、顕著な事象である。このことは本件都民交通を含む自動車運送業界においても共通の現象であり、本件は、まさにかかる問題の一断面ともいうべきものであつて、事犯そのもの現象面では、労使間の争議に起因する多数組合員による会社所有の自動車の車輪取り外しの行為であるけれども、事ここにいたるまでの機縁は、右諸問題にからみ、会社と組合側との相当長期間にわたる深刻な利害の対立と相互の不信感に胚胎している。被告人らの刑責を考えるに当りこのような、よつて来たる遠因と近因とをあわせて考慮するとともに事犯の現象形態の面をもこれをゆるがせにすることなく、各種の観点から総合的に勘案すべきものであり、ことにかかる労働紛争においてややもすると陥り易い逸脱的傾向は、法の規定を待つまでもなく、健全な労働運動の発展の視野からしても厳に戒しむべきことであるからして、これらの点も十分の考慮を払う必要がある。本件において、被告人らのとつた行動は、たとえ争議戦術とはいえ、会社所有の財産たる自動車の車輪をほしいままに撤去したうえ、そのナツト等を一括隠匿するにいたつた、いわゆる集団犯罪の部類に属し、その犯情においても決して軽微なものとは認められない。しかしながら他面、とくに本件の具体的事情について特別の考慮をいたすべきは、

一  本件紛争の直接の契機と認めるべき一月三一日組合側がストライキを解除して会社側に就労を求めた際における、会社側当局者の言動には、会社側のとるべき今後の措置について組合側に必要以上の不安感を与えているふしが見られないこともないのであり、このことは本件の近因としても無視し得ない情状と考えられること。

二  車輪の撤去そのものは、前記のごとく、決して軽微な事犯とは認められないとともに、他方会社側の措置に対抗してとられた計画的犯行というべきものではあるけれども、これらは、いずれも被告人らが組合側において決定した戦術に基きその方針どおり行動した結果であるという一面をもち、その間本件被告人らがとくに勢に乗じて組合側の決定事項の範囲外にまで逸脱したと認められる行動をとつたものでないこと。

三  被告人ら組合側において、本件当時、判示のように車検とキイの大半をその手中に置きながら、さらに車輪の取り外しに及んだ点は、看過し得ない行き過ぎではあるけれども、被告人らが車輪を取り外すに当つては、車体の損傷を防止するため必要な措置を講じ、会社側に無用の損害を蒙らせないよう相応の考慮をめぐらしていること。

四  本件において、被告人らが所属している労働組合の執行委員長たる地位にあり、証拠上その氏名も、行動も特定されている秋山源二については、本件公訴事実中被告人らとともに共謀者の一員として明示されておりながら格別訴追の対象とされておらず、この点検察官の釈明によれば、直接実行行為に加らなかつたから敢えて訴追から除外されたというのである。なるほど、これはひとつの考え方として理解することができないわけではなく、また、当裁判所として検察側の起訴、不起訴の標準の決定について異議を挾むべき筋合でないことはいうまでもない。しかしながら、もし、この前提に立つて考えると、少くとも判示二月一日の犯行においては、右秋山と全く同様の立場にあると認められる被告人柏木については、もとより、その余の被告人真井、同鶴見、同平林についても、前に認定した限度において本件の実行行為に関与していたとはいえ、証拠上直接具体的に当該犯行の実行行為そのものに手を下したと認むべき確証はないのであるから、同被告人らの量刑にあたり、この点他の共犯者らとくに、右秋山との関係において、著しい不公平の結果を招来しないよう深甚な考慮を払う必要が認められること

等の諸点であつて、これらと当公判廷において取り調べた全証拠から認められる本件に関する一切の事情を総合勘案し、右被告人ら四名につきいずれも所定刑中罰金刑を選択したうえ、主文のような刑を量定することとした。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 樋口勝 向井哲次郎 木谷明)

別紙一覧表(略)

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